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>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >え!わたしに神のわざ?


「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。……ヨハネによる福音書の結びの言葉です。主イエスが生前(復活前)になさったことは短い生涯とは言え、確かに描き切れないほどあることでしょう。ただし、それら、特に力あるわざ…奇跡…は主イエスが単独で行ったのではありません。神のわざは「マジック」ではないのです。神のわざの多くは「人の身の上」に現れます。主イエスの行う神の業は、人との関わりの中で明らかになるのでした。
主イエスは業を行うだけでなく、多くの言葉も語られました。それらは名言・格言として、数多く福音書に記されていますが、その多くは汎用性があり、「ことわざ」としても充分通用するものです(狭き門より入れ・求めよさらば与えられん等々)。しかし、この「生まれつき目の見えない人」に関わる言葉は「名言」ではありませんが、主イエスの救い主たる証しの言葉であり、主イエスの愛の極みの言葉として、わたしたちの心の深くに響く、あるいは突き刺さってくるのです。

イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(3節)……
主イエスは、病苦のなかにある多くの人たちを癒されました。辞書によれば、「癒す」とは、病気や傷などを治し、身体を健全な状態にする。あるいは悲しみや苦痛をなくす、などの意味が記されています。しかし、主イエスによる「癒し」の業はこれらとは意味を異にします。確かに主イエスは病を癒し、身体的な障がいを取り除かれました。その力は人々を驚愕させ、神の力であると信じざるを得ないほどに大いなるものでした。しかし、その力ある業の「大きさ」に驚くことに留まっていてはなりません。真に大切なことは、奇跡によって「身体が丈夫になること」ではないし、また単に悲しみがなくなったり、苦痛が和らげられたりすることでもないからです。

「因果応報的思想」が当時のユダヤ社会に於いて、根強く人々の心にありました。すべての人が病気や障がいを「悪」と考え、その原因を「罪」に求めました。弟子たちでさえ道端で施しを乞う生活を強いられている人を指して、キリストに尋ねたのです。「この人がこのようになったのは、誰が罪を犯したからなのですか。」……それにたいして、「誰かが罪を犯したからではない」というキリストの宣言こそが、当時の社会の中で苦しめられている人に必要だったのです。そしてこの言葉は、時代を越えて今のわたしたちにも求められている言葉なのです。必要なのは「病気を治す奇跡」ではありません。「誰も悪くない」との宣言によって、キリストは人々の誰もが信じて疑わなかった既成の概念を覆され、虐げられていた人たちを解放されたのです。この出来事が今日のわたしたちのもとにも「癒し」としてもたらされなければなりません。

 

「この人が病気なのは誰が罪を犯したからなのか」……わたしたちは、他者の傷み、苦しみを「悪」と決めつけ、幾度も指をさしてきたのです。差別とは、「間違った知識・偏見・先入観・社会的慣習によって、人に差をつけて区別すること」です。既存の価値観や社会の慣習、偏見や先入観の溢れる社会の中で毎日を送っているわたしたちは、まさに差別する側に身を置くことで自身の安全をはかり、生活が一定の水準を保つことを保障されてきたのです。聖書の時代、人々が「病気や障がいは悪である」という概念から一歩も抜け出せなかったことをわたしたちの誰が笑えるでしょうか。今、わたしたちこそ主イエスの言葉を真っ直ぐに受け止めましょう。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

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