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岸辺に立つ大勢の群衆と、小舟の舳先に座って語りかける主イエス。湖の風に乗って主イエスの教えが群衆の耳に届きます。風の中にイエスの声を聴きとろうと静まる群衆の瞳は湖を映し輝いています。しかし、その中には主イエスを好意的に思わず、その言葉尻を狙う者もいたことでしょう(12章24節以下)。

主イエスは、そこでいくつかのたとえ話をされました。たとえで話した理由は、一般民衆に分かりやすく、聴きやすいからでしょう。しかし、もう一つの理由としては、たとえによって、ある者には分からなくするためです。「耳のある者は聞きなさい」(9節)と言われますが、そうでない者には、どこまでも秘められた言葉なのです。イエスの言葉尻を狙う者にとって、たとえで話されたのでは「種蒔きの話」でしかないため訴える根拠になりません。それでいて聞く耳のある者には、確かに伝わる真理がそこにはあるのです。何倍にも実りをもたらすような恵みの言葉として、そこに天の国が現れてくるような福音として。

「種を播く人のたとえ」は、私たちが、どのような心で主の言葉を聴くものであるかを表しています。道端、石地、茨、良い土地のような心が挙げられます。さあ、あなたはどれに該当するでしょうか。少なくとも「自分は良い土地ではない」と思う人がほとんどでしょう。牧師である私自身がそうです。とても、「皆さん、何倍にも御言葉を実らせる良い土地になりましょう」などと無責任に語ることはできない思いです。

果たして、主イエスは、人間を4つの土地に分類しようとしておられるのでしょうか。実際の私たちは、そんなに単純ではなく、4つのいずれにも当てはまる側面を秘めているのではないでしょうか。ある時には道端のようでり、ある時には石地、茨のようであり、そして極まれに良い土地が現れたりもする。わずか一日の間でも、私たちはそのように様々な心の状態で過ごしているはずです。

石地とは、見た目は良い畑と変わらないけれど、実は土が薄い畑のことです。茨の地とは、既に茨が生い茂っているのではなくて、茨の根が隠れている土地であって外見は良い畑です。道端以外は、見た目にはどれも区別できないのです。私たちは、傍目には勿論、自分自身でも気付かない心を秘めているものです。

そして、神様はその畑に種を大いに播かれます。「落ちた」という表現からも、それが直播であることが想像されます。最初から土地を選別して良い土地にだけ種を播くのではないのです。やがて芽が出てきた頃に、土地の違いが明らかになってくるのです。神は、そこがどんな土地であろうとも区別なく、もったいぶらずに種を播かれます。私たちはその事実をこそ喜びとしたいと思うのです。私たちが豊かな実りを実らせることもそうですが、それ以前に、神様にとっては、私たちの心という土地に種を播く、福音を告げることそのものが喜びなのです。

石地でもあり、茨のようでもあり、道端のようでもある複雑な私たちの心は、その多くを無駄にしてしまうかもしれません。それでも神様の喜びは、そこに種を播くべき、私という土地があるということです。

その種は播いてもまいても尽きない愛の種です。一体、私の心のどこに良い土地があるのか、私たち自身が分かりません。その愛の種は、ある時、思いがけないところで、駄目だと思っているところ芽を出し、実りをもたらせるのです。だから大切なことは、聴き続けること。味わい続けること。

舟の上で、群衆に話をされる主イエス、他でもなく、この方自身が、神の播いて下さった種でした。決して良い地ではない、石地・茨・道端のような世界に落ちた種でした。しかし、主イエスの十字架の死とその死を越える復活の出来事は、「それでも私はあなたを、この世界を愛して止まないのだ」という神の宣言だったのです。神が、この地を良い土地として愛し抜いて下さる証しでした。全く死に閉ざされたような頑ななこの世界という畑、私という畑に、今日も主は立ち、喜びをもって種を播き続けておられます。

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