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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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彼の居場所は墓場でした。昼夜を問わず大声で叫び、石で自傷行為を繰り返していました。彼は町から排除された人だったのでしょう。墓場は彼が亡き者とされていたことを象徴しています。彼の悲しみ、怒り、絶望の叫びは町にまで届いたことでしょう。

「名は何というのか?」。主イエスの問いかけに彼(悪霊)は答えます。「名はレギオン。大勢だから」と答えました。大勢の悪霊が彼一人にとりついていたのです。レギオンの正体とは、この人を墓場へ押しやり亡き者とした町の大勢の人々の心です。悪霊にとりつかれたから町を追われたのではありません。不都合な人間を町から追い出す大勢の心こそが悪霊なのです。多数者が一人を追い詰める横暴の罪。大勢の陰に自分の身を隠す無責任と無自覚な罪。これは私たちの社会に蔓延している現実です。悪霊レギオンはどこにでもいる。

「悪霊なんているわけない」と思うこと自体、悪霊の思うつぼかもしれません。実に悪霊はわたしたちの一歩も二歩も先んじ、居心地の良い温床として心に住み着き、巧みに自分の存在を隠してしまうのです。悪霊は人の心を骨抜きにします。問題の本質から心を逸らせ、鈍感にする、漠然とさせます。何と言っても人が神を想う心を漠然とさせてしまうのです。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8章33節)。ペトロと同じくわたしたちも主からそう叱責される可能性をはらんでいます。悪霊は、わたしたちの心を神から引き離し、「何が神の御心であり、善であり、神に喜ばれることであるか」(ローマ12章2節)を考えさせません。

15節にさりげなく、悪霊を追い出してもらったこの人が「服を着ている」ことが記されています。それは彼が一人の愛すべき人間として愛されたしるしです。失われた一匹の羊を探して向こう岸からやってきた主の愛があります。その一方で、町の人々は、大切な豚が悪霊にとりつかれ崖下に転落、溺死したことを大損失だと悔みました。彼らは主イエスに「この地方から出て行ってくれ」と訴えました。一人の人を墓場に押しやったのと同様に、今度は主イエスを排除するのです。この通り、豚は死んでも悪霊レギオンは町の人々の心になお健在です。
イエスの町からの強制退去は、受難節を過ごす今、わたしたちに十字架の出来事を想わせます。十字架は、この世からの強制退去の出来事です。わたしたちは、墓場に住み昼も夜も叫び傷ついていた彼の姿に、十字架の上で叫び傷つき、そして墓場に葬られた主イエス・キリストを見出すのです。そしてわたしたちは、自分こそ主イエスをこの世から排除した大勢の悪霊レギオンの一人なのだという事実に気付くよう促されています。

向こう岸にいたこの私の所にまで、嵐を抜けてやって来て下さった主に、退去を求めるわたしたちの生き様がここに描かれています。いったい幾度、主の訪れを、主の言葉を拒絶する生き方を繰り返してきたことでしょう。「ここから出て行け」と人生を我が物顔で生き、なおそのことに無自覚であったことでしょう。礼拝堂の十字架を見つめても、わたしたちはこの事実をなかなか自覚できません。悪霊は巧みに心に働いて、わたしたちの心を漠然とさせます。わたしたちは大勢の人々の陰に隠れてこういうのです。「わたしはイエスの死に何も関係もない」「わたしはイエスなど知らない」と。

主は、身を隠すわたしの面前に立って見つめ、こう問われます。「名はなんというのか?」。わたしたちは主の前に告白せざるをえません。「名はレギオンです」。この名を告白する時、主はわたしたちに服を着せて下さいます。レギオンという名ではなく、「イエス・キリストの名」を身にまとう者とされるのです。自分は自分のものではない、まったく主のもの、主に包まれているのだということを知って生きる自由があるのです。
「あなたはわたしのもの、わたしはあなたの名を呼ぶ。わたしの目にあなたは価高く、尊い」(イザヤ43章)

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