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福音書に記された主イエスは、時にパウロなど比にならないほど厳しいことも言われます。

人につまずきを与える者の不幸さとは、「首にひき臼を掛けられて海に投げ込まれてしまうほうがましだ」というほどなのです。耳を疑う言葉です。しかしわたしたちは、イエス・キリストが罪という重荷(ひき臼など比べものになりません)を背負わされて、木に掛けられ殺されたのだという出来事を想起するよう促されています。そうまでして神は一人を愛して下さったのです。だから、神に愛された一人をつまずかせる者は、十字架に秘められた神の愛を「痛感」しなければならない、そういう意味がこの厳しい言葉に込められているのです。

一方で、主イエスは、つまずきを受けた者に対しても、赦すことを命じています。「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら戒めなさい。悔い改めたら赦してやりなさい」。赦せない者を赦す、これもまた難しいことです。いや、人をつまずかせない事よりも、なお難しいもはや私たちには不可能な教えのようにさえ思えてきます。

このような厳しく実行することの難しい教えを受けた弟子たちは、たちまち自分の不信仰な現実に直面し愕然としました。自分たちが互いにつまずかせ合い、赦し合うことにおいて少ないのは、信仰が決定的に足りないからだ、と思ったのでしょう。切迫した気持ちで「主よ、わたしどもの信仰を増して下さい」と主イエスに求めたのです。私たちも、自分の人に対する態度を振り返る時、自分の皮相浅薄な信仰者の実態に嫌気が指すことがあるのではないでしょうか。

そんな弟子たちに対する主イエスの答えは意外なものでした。イエスは、燃えるような、溢れるような、山のような信仰ではなく、「からし種一粒の信仰」を求めたのです。「もっとこうでなければ」と苛立ち焦る私たちを立ち止まらせるみ言葉です。主イエスが言われる「からし種一粒の信仰」とは何でしょうか。それはちっぽけで、役に立たない、ということではありません。素朴であること、ここに尽きるのではないでしょうか。

「あの人は立派だ」と言われる人の信仰というものほど、実は極めて素朴なものです。からし種一粒の素朴さなのです。そしてだからこそ、その信仰がもたらす力に、私たちは、はっとさせられるのです。人生で大事を為し成功することではなく、この一粒の信仰になっていくこと(それは、小事に忠実であるということとも関係するでしょう)、それこそ主が目を向けておられることです。

「信仰」について、神学的に難解な説明もできるかもしれませんが、結局のところ、それは「神は愛なり」という心から告白する一粒の信仰それ以上のものではないのでしょう。信仰者としての「成長」とは、余計な思いを削ぎ落とされて、この一粒の信仰になるということです。

神様もまた一粒の素朴な愛を、イエス・キリストを通して示して下さいました。「輝かしい風格も、見るべき面影も、好ましい容姿もない」(イザヤ書53章)、だからこそ、そこには神の愛がこの上なく明瞭に現されています。この一粒の愛を頂く時、それが私自身を満たすだけでなく、隣人に仕えていく力としても発揮されていくことでしょう。

「昔、主イエスの蒔き給いし、いとも小さき命の種。芽生え育ちて、地の果てまでその枝を張る、樹とはなりぬ」(讃美歌412)です。人を躓かせずそっと支え、赦すという道をあきらめずに見出していく、そのような歩みでありたいものです。

一粒の神の愛を頂き、一粒の感謝の信仰に生きていく時、その人は謙ってこう告白できるのです。「わたしは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』(10節)「今日を、あなたの御用のために生きることができました」と、一日を振り返って感謝で終えることができるならば、そこにキリスト者の大きな喜びがあります。

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