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金曜日にイエスは十字架で死なれました。土曜日は安息日のために、礼拝以外のことをなすことは禁じられていました。そこで日曜日の朝早く、イエスの遺体を丁寧に葬りたいと願った女性の弟子たちがイエスの墓に向かいました。女性たちにとって、墓の前に置かれていた石が大問題でした。しかし行ってみると、「既にわきへ転がしてあった」のです。

女性たちが墓の中に入ると、「白い長い衣を着た若者」が座っています。女性たちが驚いていると、若者は「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」というメッセージを伝えます。それを聴いた女性たちは、恐ろしくなって、それを誰にも話せなかった…それが今日の聖書に書かれてあることでした。

聖書の中で、イエス・キリストの復活についてもっとも古い証言はパウロ書簡です。しかし、復活の日に何が起こったかという意味で、もっとも古い物語を書いているのは、マルコによる福音書16章1〜8節です。

十字架についてはあれほど熱心に書いてきたマルコが、復活のことになるとわずか8節で終わっています。さらに、復活のイエスの姿は登場しません。この福音書を締めくくる最後のことばが「恐ろしかったからである」であること。実に意外な記述という以外にはありません。

私たちには「では、復活のイエスとどこであえるのか」という問いが生まれます。実は、マルコはその答えを神の使いの言葉に隠しているのです。

それは「ガリラヤ」なのです。ガリラヤとは地名ですが、混血の地と蔑まれてきた地域であり、イザヤも「異邦人のガリラヤ」と蔑称しています。すなわち、神の救いからもっとも遠いところだと考えられていた地域なのです。

そこに復活のイエスはおられるというのは意味深い宣言ではないでしょうか。

弟子たちにとってガリラヤとはどんなところだったのでしょうか。ペトロが復活のイエスと出会う場面がヨハネ福音書に記されています。ガリラヤに帰って漁をしていたペトロたちが、一晩中働いても魚一匹もとれなかったのですが、一人の人が右側に網を下ろしなさいといいます。その通りにしてみると、舟が沈むほどの大漁になり、「あれは主だ」という言葉を聴いて、ペトロは湖に飛び込んだという話です。

この物語でペトロが仲間に「わたしは漁に行く」と告げるのですが、このことばの意味は一時的に、時間つぶしに漁に行くと言ったのではなく、もとの漁師に戻ると宣言したということなのです。つまり、弟子たちは、イエスにも、自分にも、そして社会にも、落胆し失望し、他に行くところがなくて、恥を忍んで帰ってきたところ、それがガリラヤでした。

しかし、復活のイエスはそこに先に行って待っているといってくだっているのです。

私たちが悲しみの底で、イエス・キリストがガリラヤで行われたこと、ガリラヤで語られたこと、ガリラヤで生きられたこと、そして、痛むものと共にあり、悲しむものと共にあり、裏切られてもなお愛し続けたこと、マルコが記したイエスの生涯に戻るとき、あなたはあなたを、今、愛しつづける復活の主と出会うことができるというのがマルコの意図でないでしょうか。

そうした出会いの中で、ある時決定的な事柄が見えてきて、私たちは復活を知り、信じるようになるのです。今までの自分とは全く違う新しい人生の希望、新しい生命と出会うのです。それは、あの弟子達が信じた復活のイエスと全く同じなのです。そうして復活のイエスと出会った証人は、今も世界に広がりつつあるのです。イースターおめでとうございます。

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