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カナの街から直線距離で30キロほど離れたカファルナウムという街に王の役人がいました。彼は、イエスに死にかけている自分の息子を癒して欲しいとカナにやってきます。以前、水がブドウ酒に変えられた不思議なしるしについて聞いていたのかもしれません。
王の役人ですから、権力も財力もあったはずです。自分の持てるあらゆる力を用いて病気である息子のために何とかしたい、とやってきたことでしょう。けれども、人間のあらゆるものを用いても解決できないことを突き付けられました。
そんな絶望的なときに、イエスのうわさを聞きつけ、この役人は、「イエスならこの死にかけている自分の息子をなんとかしてくれるかもしれない!」とイエスに、すがるような思いで飛んできたのです。

ところが、この父親に対する主イエスの返答というのは、「すぐに行きましょう。」というのではなく、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言うのです。つじつまの合わない会話ですが、それでもこの役人は、なおもイエスにお願いするのです。まずここに、役人の信仰が現れていると思うのです。
すぐに行くとは言わないイエスに、もう一度お願いをするということは、主イエスが必ず自分の息子を救ってくれる、という確信があったからに違いないのです。本当に救ってくれるのかと疑うならば、そこまでお願いすることもないのではないでしょうか。

信じるということは、疑うことなく、委ね切ることだと思います。信仰というギリシャ語「ピスティス」には、「ひたむきさ」という意味もあります。この役人の姿はまさにひたむきでした。ひたむきに求める信仰、疑いなく求める信仰を持つことは大切です。
では、何を求めるのか。この役人は、もちろん息子が癒されるしるしでした。「しるしを見なければ信じない」というイエスの言葉はとても厳しく聞こえますが、真の意味で主を「信じる」とはどういうことなのか、私たちは何を求めるのかを考えさせる重要なものがあります。

主イエスは、どんな病も癒す方として世に来られたのではありません。もし、そういう方として来られたのならば、病に苦しむ人はいなくなっているはずです。主イエスが来られたのは、私たちにとって都合のよいように働かれるためではなく、この世界を造り、私たちを愛し生かしておられること、そして、私たちが罪と死の闇に覆われていることを深く嘆き、なんとしても救い出すためです。

水をぶどう酒に変えたしるし、そして今回の二回目のしるし。これは単に奇跡という意味だけではなく、目印であると思うのです。一本の道に水を葡萄酒に変えた一つ目の印、役人の息子を癒した二つ目の印、というように。福音書を読み進めていきますと、これからいくつも「しるし」が主イエスによってなされていきます。その一つひとつのしるしは、単に主イエスの人気取りとしてなされたものではなく、主の哀れみ、愛が込められたしるしです。そして、それを辿っていった道の、しるしの先には、十字架の死と復活という決定的な出来事を指し示しています。私たちが本当に必要とするしるしは、この最終的に示された十字架と復活です。なぜならここに、すでに完全に私たちの救いが宣言されているからです。それは、私たちにとって何気ない日常の出来事すべてが、主イエスの十字架と復活によって果たされた救いを思い起こすしるしであふれていると言えるでしょう。不思議な出来事に救いを思うだけではなくて、当たり前の生活の中にある救いの恵みを思い起こして、ひたむきに信じ、求めていけることに、喜びがあるのではないでしょうか。

主イエスは言いました。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」この「生きる」という言葉は単に生命を指す言葉ではなくて、神の前に生きる命、天国における永遠の命を指す言葉です。「あなたの息子は生きる」それは、「あなたの息子は神の前に生きる」そういう宣言であり、約束であるのです。主から宣言されたこの父親は一人帰って行きました。主イエスは一緒ではありませんでしたが、この役人の心は晴れやかだったはずです。目に見えるしるしを求めるのではなく、「あなたの息子は生きる」という宣言をひたむきに信じ、携えて帰ったからです。

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