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「悔い改めよ!」「神の国は近づいた!」ワイルドな風貌から発せられる洗礼者ヨハネの厳しい言葉は、数百年にわたって大国の支配を受け続け、荒野のように渇いていたユダヤの人々の心を醒ます刺激的なものでした。ヨハネは、耳障り良い言葉で人気取りや自己実現を目論むのではなく、旧約聖書に登場する預言者たちの如く、世の罪の現実を暴露し、差し迫った神の怒りを告げ、悔い改めを迫りました。その厳格さは、人々から敬遠されるどころか、むしろ奮起させ、絶大な支持を集めたのでした。彼の話を聴くためにユダヤ全土から集まって来た人々の中には、ヨハネこそ来るべきメシアだと考えた人もいました。しかし、そのような考えをヨハネ自身はきっぱりとはねのけます。「彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した。」(20節)

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」、ヨハネは自らを「声」と理解しました。「声」とは即ち、消えていくものです。自分は、後から来られる方を世に告げ知らせる役割を果たしたならば、消え去るべき存在なのだと。事実、ヨハネはヘロデによって捕えられ殺害されたのです。
しかし、彼の声は人から人へこだまし、より大きく深い響きとなり、時を越え私たちのところにまで響いています。「主の道をまっすぐにせよ」(23節)と。

ヨハネの語り口は、楽しいクリスマスを前に、ちくりと痛いものがあります。しかし、その言葉を抜きにクリスマスは訪れません。神がどうして独り子を遣わさなければならなかったのか、その出来事の奥にある、神の世に対する悲しみ、痛み、怒り、そして限りない忍耐と愛というものを忘れたまま、ただクリスマスの美しさ、温かさに浸り、これを一過性のイベントにしてしまうわけにはいかないのです。
「主の道をまっすぐにせよ」主が来られる道を、主と共に歩む道をまっすぐにせよ、との言葉を避けることはできないのです。

しかしどうすれば、真っ直ぐにできるでしょうか。ヨハネは、「わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない」と自己評価しました。ヨハネでさえそうならば、まして私たちはどうなるでしょうか。考えればどこまでも主の前に相応しくない私です。自分の歩んできた道を振り返る時に、どうしてこのような曲がりくねった道を主が通って、私にもとにやってきて下さるだろうかと思わずにおれません。歩んできた人生が長ければ長いほど、それを真っ直ぐにすることなど不可能です。

一休和尚が立派な松を弟子たちに見せて、この曲がりくねった松をまっすぐに見てみよと問うた時、弟子は懸命に体や頭をくねらせながらそれを眺めましたが、一向にできません。そこにやってきた蓮如は、その曲がった松を見て、ただ「よく曲がっているなぁ」と答えたそうです。つまり「曲がったものは曲がったものとしてそのままに見る」からこそ、「真っ直ぐに見る」ことになるのだというとんちです。

「主の道をまっすぐにすることは、もはや私たちには不可能です。見つめ直せばなおすほほど、それが無理だと分かってくる。大切なことは、取り繕って虚飾することではなく、曲がりくねった自分の人生を、主の前でそのままに認め告白できるかどうかです。その時、その人は、神の御目にまっすぐな者であります。

曲がりくねり、迷路のようになった私たちの人生を道を通り、 主はひたすらになってやってきて下さいました。そして、十字架の死に至るまで命を懸けて仕え抜いて下さった。今や、私たちの真の道となって下さいました。私たちは自分の人生が、深い嘆きの谷のようであっても、あるいは高く苦しい山のようであっても、曲がりくねり、でこぼこの道であっても、そこが間違いなく神の愛の上を、神の赦しの上を歩んでいる平安な道なのだ、信じて生き抜いていくことができるのです。

「荒れ野で叫ぶ者の声」私たちの人生はいつも清々しい草原、輝く雪原のようではなく、荒野のような時があります。しかしそこで告げられる、そこでしか聴き得ない声に耳を傾けて歩んで参りましょう。そして次週(20日)、共に飼い葉桶に生まれたインマヌエルの産声に耳を傾けましょう。

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