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今日のたとえ話は「ぶどう園の主人」についてです。ある人が自分の持っていた土地に設備の整ったぶどう園を作りました。主人と農夫の間には一つだけ約束がありました。それは収穫の時期になったらある一定の収穫を納めるというものでした。「ぶどう園」はイスラエルの象徴として表現をされていたため、間接的に主人である神様が農夫であるイスラエルの民に任せて旅に出たという話なのです。農夫は十分な収穫があるにも関わらず、約束を守ろうとしません。むしろ主人が送った僕を袋だたきにして帰してしまうほどでした。ぶどう園の主人は、農夫に何度も裏切られる、けれども自分との約束を果たすよう促していくのです。

このたとえを聞いていた祭司長や律法学者たちはイエス・キリストが自分たちに当てつけて、この話をしていることに腹をたてたといいます。イエス・キリストは自分たちの立場を揺るがす存在であると気がつくのです。人間は自分に危害を加える人を排除したいと思うものです。傷つけられるくらいなら、傷つけよう。期待して裏切られるのなら、期待することをやめよう。愛して馬鹿をみるのなら、愛することをやめようと思うのです。

ぶどう園の主人は何度も自分を裏切る農夫に嫌気がさすのではなく、突き放すのでもなくこのように語りました。「どうしようか、わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」ぶどう園の主人とは神を例えたものです。何度痛い目をみても信じ続ける、この人たちにかけてみようとする神の姿です。私たちを諦めない神の姿です。

神の思い空しく息子は殺されてしまいます。農夫は主人から見捨てられても仕方のないことをしてしまうのです。しかし時点で主人と農夫の関係は終わるのではなく、イエス・キリストは彼らを見つめて言われました。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことでわたしたちの目には不思議に見える。」隅の親石とは、日本でいう大黒柱のことです。当時は石造りの建物の隅に基礎となる石を隅の親石と呼んでいました。イエス・キリストは一度人間に捨てられた石です。捨てられた石は「愛に生きた石」でした。人を愛することは時に馬鹿をみることがあります。愛に生きたところで何が変わるのかと思うことがあります。愛することは時に裏切られること、応えてもらえないことがあるのです。

しかしイエス・キリストは愛して傷ついて、愛して馬鹿をみて、人を信じて傷ついた、そんなあなたこそ神の愛に生かされると宣言したのです。なぜなら神ご自身が人間の暴力と弱さの象徴である十字架への道を選び取られたからです。イエス・キリストご自身が苦しめられ、痛めつけられ、自分の身を投げ出すことによってしか神の愛を人間に示すことができないと決意されたのです。

私たちは神の愛の深さに出会うとき、イエス・キリストの十字架がわたしに向かって迫ってくる時、自らを打ち砕かれる経験をします。「その石の上におちるものは誰でも打ち砕かれる」のです。なぜなら私たちは、短い人生の歩みで人を愛し抜くことの難しさに直面します。愛を貫くことのできない自分を知っているのです。

しかし、わたしたちには隅の親石として「愛に生きた方」であるイエス・キリストがおられます。わたしたちも神によって生かされている一人として「人を愛する」「愛するために努力を惜しまない」生き方を目指していきたいと思うのです。「神が愛する息子をこの世界に送る」その決断によって、神がそれほどまでにわたしたちを愛して下さっていることを知ったのですから。愛することを目指して生きていこうではありませんか。そして神の愛に生かされる一人でありたいと願います。

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