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「しばらく」の意味
なぜ主イエスは三日目に甦ったのか。なぜ四日目ではなかったのでしょう。三日という「しばらく」にどんな必然性があるのでしょう。それは何の意味もない、ただの偶然だったのでしょうか。神様が用意された必要な「しばらく」だったのだと言うほか答えはなさそうです。
わたしたちの人生もまた、神様が用意された「しばらくの時」だと言えるでしょう。弟子たちが三日目に復活の主イエスに会ったように、わたしたちの人生は、いわば主イエス・キリストに相見えるまでの「三日間」です。
十字架に死なれた主イエスが復活し、彼らに再会されるまでの間、弟子たちは金曜の夜、そして土曜日、どこで何をしていたのでしょう。聖書は明らかなことを何も語りません。特に何も記述がないということは、「特筆すべきものはなかった」「言葉にはならなかった」ということなのかもしれません。弟子たちにとって、主イエスがおられないこの世界で過ごす時間は、なんとも空虚な時間だったのではないでしょうか。
これは、わたしたちの人生に置換できましょう。私たちも、特筆すべきものなく、必然性の見いだせない「しばらくの時」に倦むことがあります。神様に向かって「一体、いつまでですか!」と嘆息することもあれば、反対に「一体、この人生で何をしてきたのか、何の意味があったのか」と時の早さに焦ることもあります。自分とは何者か、どうあるべきか。それを追い求めるあまり、かえって自分の思いに縛られて苦しみ翻弄されます。毎日何かに思い悩むために生きているかのような倒錯が起きてしまいます。聖書には何も記されない弟子たちの空白の三日間。そこに私たち自身の人生の姿が見出されます。

御手の内にある「束の間」
この聖書箇所にたびたび出てくる「しばらく」と訳される言葉は、「ミクロン」という言葉です。希望や意味の見いだせないしばらくの時、それは神様の目から見ればミクロ、言い換えれば「束(つか)の間」です。束の間の「束」とは、長さの単位です。拳を握って指4本分の長さ、これが一束です。神の目にわたしたちの人生とは「束」の間であるということ、それはすなわちすべては神の拳(御手)に包まれているということです。御手の内にある束の間の人生において、私たちのなすべきことはそう多くはありません。「アーメン」(主こそ真実です、本当です)、この心からの一言に辿り着くこと、繰り返し確かめることです。ただお題目のように唱えることではなく、主の真実さに自分のすべてを委ね、注いでいくことです。その時その人は自分の今を受け入れて生きていくことができます。

特筆すべき喜び
23節で、主イエスは弟子たちにこう言われます。「その日には、あなたがたはもはや、私に何も尋ねない。」私たちは、しばらくの時を経て、やがて主イエスにお会いする時、自分の歩んできたしばらくの人生について、あれこれと尋ねたいことがあるかもしれません。「あの苦しみにはどんな意味があったのか」「あの時、なぜ困難を与えられたのか」。しかし、そのようにして、あなたがたは何かを未練や後悔をもって尋ねたりはしないと言われます。そうではなく、「あなたがたは心から喜ぶようになる。」と約束しておられます。わたしたちが人生で経験する悲嘆が、苦痛が、そのまま残り疼き続けることはない、やがて誰にも奪い取ることのできない喜びへと変えられるのだと。
その約束の御手にしっかりと捉えられてある人生という「束の間」であるということ、それこそが、特筆すべき喜びです。

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