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私たち人間は必ず死ぬ。すべての生命には限りがある。この現実は、万葉集が書かれた、7世紀後半も、聖書が記された時代も、人工知能が人間に代わって活躍しようとする現代でも、変わらない現実です。しかし教会は語るのです。人生の終着駅は墓場ではない。死をも、乗り越える力がある。

キリスト教信仰の中心には「復活」があります。「クリスマス」のようなイエスがこの世に来てくださったというメッセージに比べると、「復活」は、理解することが難しいテーマだと思います。しかし、私たちは「使徒信条」で告白するように、「主イエスキリストは、苦しみを受け、十字架につけられ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえった」ことを信じています。「復活」は、イエス・キリストによって、死の壁が取り払われた。決して人生の終着駅は墓場ではなくて、復活の命に生きることができるようになったと語ります。これが教会の信仰であります。

今朝の聖書は、このような内容でした。主イエスが、「死と復活を予告した話」をしてから、8日程たった日、弟子であるペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られました。山に登り始めたのは、当時の常識から言えば、暑い日中を避けて、夕方か夜のことであったようです。つまり山の上でのこの出来事は、夜の出来事ということになります。あたりはもう暗くなっていた。ペトロたちが眠かったのもうなずけます。
イエス様、お一人が祈っておられる。自分たちの先生が祈っておられるのに、先に寝てしまうわけにもいかない。弟子たちは、じっとこらえているが、うとうとしてしまう状況でした。

ふと目を覚ましてみると、闇の中に光が輝いている。真っ白に輝く主イエスを中心にして、モーセとエリヤがそこにいた。モーセはイスラエルの民をエジプトでの奴隷生活から導きだしたリーダーです。律法もそのとき与えられました。エリヤは偉大な預言者です。つまりこの二人は、旧約聖書を代表する人物たちです。
弟子たちはひどく眠かったけれども、イエスの姿が変わった。そしてモーセとエリヤと話しておられる姿を見た。
モーセとエリヤとイエス。この三人が何を話していたのか。ルカによる福音書では、その話の内容を丁寧に記しています。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(31節)、三人は話し合っていたというのです。

「最期」という言葉が出てきました。かつての文語訳聖書では「逝去」と訳されていました。死のことであります。この言葉は、もとのギリシア語の言葉では「エクソドス」という言葉です。旧約聖書には、出エジプト記があります。モーセが、イスラエルの民をエジプトでの奴隷生活から導き出した。この「出エジプト記」のことを、英語では「エクソドス」と言います。同じ言葉です。もともと、ここで使われている「エクソドス」には「最期」という意味だけではない。「出る」「出発する」という意味もあるのです。

「エクソドス」を「最期」と訳すのか、それとも「出発」と訳すのか。終わりを意味する言葉として理解するのか、それとも始まりを意味する言葉として理解するのか。まるで正反対の意味と考えられるかもしれませんが、墓場が終着駅でないとしたら、そこからの出発も考えられるわけです。

ですから主イエスがモーセとエリヤとの間で話し合っていたことは、単なる主イエスの終わりの話ではない。死や終わりの話は、新たな始まりの話でもありました。主イエスがどう死を乗り越えてくださるのか、三人の間でその話がなされていたのであります。
本日の聖書の物語を、私たちは、天を突き抜けるかの思いで聴くことができる、そのような信仰に生かされていたのだと思います。モーセとエリヤはいわば、天国の住人のような人物です。そして父なる神の声も聞こえてくる。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」(35節)。父なる神のそのような声さえも天から聞こえてきます。

ある説教者は、今朝の場面の終わりをこう語っています。「エリヤとモーセは雲の中に包まれて消えてしまった。いわばまた天に戻ってしまった。イエス・キリストにもその権利はあった。しかしキリストはそこに留まってくださった。地上に留まって、ご自分が死ぬことを選びとってくださったのだ」

もしキリストが、このとき消えていなくなってしまったならば、ペトロが言うように、仮小屋が建てられていただろうと思います。イエスというお方がこの山の上でモーセとエリヤと語り合った。そして栄光に輝き、天に挙げられた。そのような記念碑のようなものが建てられていたことでしょう。

しかし、主イエスはその道を選ばれなかった。いなくならなかった。モーセとエリヤが成し遂げることができなかったことを主イエスが引き受けてくださる。すべてが主イエスに託されて、モーセとエリヤは姿を消すのであります。他に必要なものは何一つない、救いのために必要なただ一人のお方が、十字架による人間の罪の贖い、そして死と復活を実現するために、この地上に踏みとどまってくださったのであります。
エルサレムは、イエスにとって、敵対する者が待ち受ける危険な街です。今朝の聖書の場面で、イエスは、モーセとエリヤと、これから成し遂げられる「最期」のことを語っていました。しかし引き帰らずに、あえて、その道へと進まれたのです。救いのために必要なただ一人のお方が、十字架による人間の罪の贖い、そして死と復活を実現するために、この地上に踏みとどまってくださったのであります。
私たちはその後に従う者たちです。主イエスの後について行けばよい。そのようにして私たちは、主イエスが取り除いてくださった死の壁を踏み越えて、その先に進んでいくことができるようになります。

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