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弟子たちに言われたことは、「夜中でも目を覚ましていなさい」ということでした。しかもただ起きているだけではなくて、婚宴から帰ってくる主人を待つように、いつ帰ってくるかわからないけれど、準備万端で待っていなさいということでした。

主人は思いがけないときに帰ってくるのですが、その時に備えていた僕は賞賛を受け、まるで僕ではなくて友人のように扱われるのだけれど、もし、怠惰であったり、主人の帰宅が遅いとなめてかかっているなら、その仕打ちは相当なものになるというのです。

キリスト教は、イエス・キリストがもう一度、この世界にこられると信じていて、それを「再臨の日」と呼んでいます。初期のキリスト者たちは、その再臨の時が迫っていると考えていました。

ところが、ルカ福音書の成立は80年以降と考えられていますから、イエスが十字架にかかってから約50年がたち、直弟子たちが死に、パウロも死にました。それなのに、再臨は訪れていないのです。教会の中から「再臨はいつなのか」「再臨など本当にあるのか」「再臨など起こらないのではないか」という疑問が出てきても不自然ではありません。その様子を「主人が帰ってくるのが遅れたので、規範を失った生活をしている僕」として描いているのです。

つまり、ここで言われているのは、いつ再臨が来ても良いように、イエスの前に堂々と立てるような生活をしていなさいということなのです。

コロサイの信徒への手紙3章12?17節を現代的なことばでいうと、「苦しんでいる人と共感しながら生きなさい、悲しんでいる人を慰め、偉そうな態度をとらず、じっと相手の主張に耳を傾けなさい。そして、相手と意見が異なることがあっても、相手の中にある善意をいつも認めるようにしなさい。」それがイエス・キリストが示してくださった愛なのだから、あなたがたも生涯をかけて、その愛を身に着けるように、努力して下さい。愛こそがすべてを完成させます」となるのですが、そのような日常を送りなさいと進められているのです。

それを聞いたペトロは「この話は誰のためにしているのですか」と尋ねますが、それに対してイエス・キリストはたいへん厳しい返答をされました。

キリスト者は神の福音の管理人のようなもので、忠実な良い管理人には、全財産を管理させられるけれども、管理人の立場を利用して、暴力を振るったり、自分だけが利権を漁り、自分だけが美味しいものを食べ、酒を飲んでいるとしたら、そのものは厳しい罰を受けることになるだろうというのです。キリストの再臨などないのだと侮っているものは、後悔することになるだろう、と言うのです。

キリスト者であることが、夜中に目を覚ましているように、愛を行い続けなければならないというのなら、これほど辛いことはありません。

しかし、最後のことばに注目して欲しいのです。「多く与えられたものは、多く求められる。」とイエスは言いました。この話の前提は、我々はすでに神から「多くを与えられている」ということなのです。

私たちが私たちの力で人を愛するのではありません。神に愛されているので、愛すことができるのです。神が赦して下さるので、赦すことができるのです。神が耐えて下さっているので、耐えることができるのです。大切なことは、イエス・キリストから与えられている愛をいつも見つめ続けているということなのです。神の愛が、私たちを突き動かすのです。

私たちが日常生活の中で見失っているもの、それは「神さまから与えられているもの」なのです。強さばかり求めていて、弱さは要らないもの、ない方が良いものだと思っています。しかし、神にあってはそうではないのです。人の中には強さも弱さもあります。そして、その強さも弱さも大切な神からのプレゼントなのです。そこには「主人の思い」(47節)があるのです。それは私たちへの愛なのです。神は私たちを愛して下さっている。そして、私たちに必要なすべてを与えて下さっている。すでに「多くを与えられている」そのことを生きる基盤として歩むとき、そこには愛の歩みが向かっていることになるのです。それこそが札幌北光教会の創立118年目の歩みであり、北光幼稚園の97年目の歩みにつながっていくのです。

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