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「なぜ苦しまねばならないのか」不条理な現実の中で絶えず問われてきた普遍的な問いです。この人間社会は秩序を維持するためにこの不条理を「罪」と関連付けることで、理解可能・説明可能なものにしようとしました。

ピラトによるユダヤ人虐殺事件、シロアムの塔倒壊事故についても人々は考えたでしょう。「これほど悲惨な目に遭遇しなければならなかった彼らには、それ相当の理由があったからではないか」しかし主イエスはその考察を断じて退けます。

「決してそうではない!」「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのガリラヤ人より罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。…言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(2〜5節)と。罪と苦しみの関連は十字架において決定的に否定されました。罪なき方が、十字架で苦しまれたのですから。

主イエスは悔い改めを求めます。「苦しみは罪の結果だ」とするその視点を換えよというのです。苦しみは罪の結果であるという考え方は「私でなくてよかった」「私は罪人ではない、あの人よりましだ」等という身勝手な安心、差別を生み出しますが、主イエスに言わせればその生き方こそが滅びに至るのです。「滅び」とは、神様との関係が切れた所で、「わたしでなくて良かった」「わたしは罪人ではない」という自家製の空虚な喜びや安心を貪る生き方です。それほど惨めなことはないのです。

では反対に救いとは何か。それは、希望なく立ち尽くすほかない不条理な悲しみが覆う今日という日に寄り添い続けて下さる方がおられるということです。「来年は実がなるかもしれません」そう懸命に執り成す園丁の姿、そこに救いが語られています。

園丁はいちじくを守るために主人に言いました。「今年もこのままにしておいて下さい。木の周りを掘って、肥しをやってみます」(8節)。そこはぶどう園なのです。そこにいちじくが植えられていること自体、本来場違いなのです。「こんなところに植わっているいちじくが悪い」そう一方的に結論づけられてしまうのです。いちじくとしては全く不条理な話です。しかし、そこで園丁は、いちじくをこそ気に掛けるのです。

この園丁が、イエス・キリストのことであるのは明白です。園丁がいちじくを守ることは、合理性・生産性の観点からは、ただ愚かなことでしょう。けれども主イエスは、「来年こそは実りがあるかもしれない」と希望を捨てず、すべてを尽して寄り添い、待ち続けて下さるのです。この園丁イエスこそが、私たちの明日を、未来を見つめていて下さるのです。

「神様なぜですか」と問わずにおれない答えの見えない、希望の兆しがない現実が厳然と覆いかぶさってきます。人生が根本から切り倒されそうになる危機がある。しかし、まさにそこで命を懸けてこれを支え続ける園丁がおられるのです。私たちの人生において、イエス・キリストが仕えていて下さらなかった時など一時もないのです。そこまでしてくださる主がいて下さる。不条理・不合理の多い世において究極の不条理・不合理とは、神の愛なのです。

わたしたちを支える主が待ち続けておられる実りとはなんでしょうか。それは、わたしたちが「ああ、自分でなくて良かった」という空虚な喜びに生きる者ではなく、主イエスがこのわたしにして下さったように、「愛する者となる」という実りです。いちじくは漢字で「無花果」。神様は私たちに、美しく香り高い花を咲かせることを期待しておられるのではないでしょう。たとえ美しさ、見どころもなくても、またたとえ小さく・青い実りであったとしても、そこで隣人への思いを実らせていく時、それこそが園丁が待ちに待っていた最上の喜びなのです。

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