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イエスがエルサレムに入城する場面で、人々がどのようにイエスを歓迎したかということが8節の所に書いてあります。自分たちの着ている服やナツメヤシの葉を絨毯に見立てて道に敷き、まるで都に凱旋する王を迎えるように人々はイエスを迎えたのです。「ホサナ」という言葉を人々が口にしたとありますが、これは「主よ、今こそ救って下さい」という意味の言葉です。つまり、人々はイエス・キリストを王として迎えた。それもただの王でなく、現実の苦しさや貧しさ、辛さの中からの救い主として迎えていった。それが、民衆の歓迎という事柄の中で、語られていることであります。

私たちは、大きな課題を前にして「神様、助けて下さい」そんな願いや助けを祈り求めるものです。同じように、イエスを迎えた一人一人も、イエスという人に、現状を打開してもらいたいという願いを持っていたのです。彼らは今、軍事力を背景にしたローマ帝国の力に抑圧され、そして、ローマの傀儡化したエルサレム神殿の力によって苦しめられていますが、その力を凌駕する力強い救い主としての期待を持ってイエスを歓迎した、それを背景に今日の所は読んでいかなければなりません。そもそも、ユダヤの人々がメシアと聞いて思い浮かべるのは、そのように力強く、世界に劇的な変化をもたらす方だ、という理解をしていたのです。

けれども、イエスはその人々の期待には応えられませんでした。なぜなら、もしイエスが力によって世界を変えるということを認めていたとしたら、今私たちが見つめながら過ごしている十字架の出来事は必要なかったはずです。神は全能の神ですから、力によって世界を変えることもできたはずなのです。けれども、あえてイエスは十字架を選ばれました。間違いなくイエスも、傷ついた人や、差別される人、貧しさの中で苦しむ人たちとの出会いの中で、「この世界を変えなくてはいけない」そう思っていたに違いありません。しかし、本当にこの世界に平和というものをもたらすために、抑圧のない世界を創出するために、誰もが「生きていて良かった」そう喜びながら生きられる神の国をこの世界に実現するために必要なのは、十字架こそが必要なのだ。イエス・キリストは、そう考えて十字架に向かわれたのです。

今日の3節からの所に、そのイエスの思いが表されています。「向こうの村」からイエスはロバを連れて来させますが、「村」ですから、恐らくそこには馬もいたはずです。けれども、あえてイエスはロバを「入り用」だと言われるのです。

「入り用」という言葉は、本来的には「不可欠」という意味、必要というだけでないことがわかります。村の中には馬もいたはず、自分を御輿に乗せて担いでくれる人たちも大勢いた。そうして力の神としてエルサレムに向かう事も出来た。けれども、その中でイエスは、「ロバが不可欠だ」とおっしゃられたということです。みすぼらしくて、走るのものろい、私たちの言葉では「貧弱」と言われるようなロバが「不可欠」なのだ、と言われるのです。

神は神の国をもたらすために、ロバのもつ貧弱さ、私たちの持つ欠けや破れが「不可欠だ」と言うのです。ありのままのわたしたちを招いてくださるお方だということです。そして、ご自身もその弱さを真実に生きられて、最後には、神でありながら、十字架の上で無残に殺されていく。そのような神なのです。生涯を通して、十字架という出来事を通して、イエス・キリストは、力よりも、弱さこそが、神の国を創り出すことに不可欠だと教えてくださったのです。

わたしたちが、互いの弱さも小ささも、全てを受け止め合って、支え合うとき、そこには分かち合いが生まれます。共に涙も喜びも分かち合う時に、本当に隣人を愛して生きた時に、そこには救いが生まれ出るのだ。聖書はわたしたちにそう教えてくれるのです。

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