札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >一つのパンがあるとする


主イエスから「あなたがたが配りなさい」と言われ手渡された半分ほどのパンを12弟子はどんなに唖然とした顔をそれを受け取ったことでしょう。「これを配れなんて… 愚か過ぎる」。ちぎっては配る自分の姿を想像するだけで恥ずかしかったでしょう。それ以上ないほど情けない顔だったはずです。

しかし、そんな愚かで恥ずかしい業に一歩、二歩と踏み込んでいったからこそ、群衆はその先に用意されている恵みを共に味わうことにつながっていったのです。福音を宣べ伝えること、信じることにおいても全く同じことです。「なんと愚かな無意味なことだろうか」と思われるところで、しかし主イエスからみ言葉を受け取っていく、み言葉を配ってみる、そうして初めて示されてくる気付かされてくる御業があるのです。置戸宣教協力とはそんな営みの一つであり、間もなく創立119周年を迎える札幌北光教会の旅路も、そのような御業の連続であったことでしょう。

さて、残ったパンは沢山の籠に集められましたが、弟子たちは慌ただしい移動の最中、そのパンをどこかに置き忘れて来てしまったのです。あれほど余っていたはずのパンが、たった1つしかないという状況に直面しました。誰かのポケットに入っていた、ひしゃげて干からびたパンです。弟子たちはひどく狼狽しました。

そして、この一つのパンが、あの5千人が満たされた奇跡を証しする唯一のパンであることを忘れたまま、弟子たちは、ひたすらパンが一つであるという目の前の事実を嘆き、失われた多くのものを悔やむのです。

私たちもまたそのような一喜一憂の日々が多くないでしょうか。昨日頂いたはずの恵み、昨日心に抱いたはずの熱き感謝と祈りが、しかし、今日の私の希望につながっていない、今日の力として生かされていないのです。振り返れば、神様がこれまで下さったはずの数えきれない恵みがあったのに、今はすっかり忘れて、あるいはなおざりにして、目の前の不足をつぶやいてしまいます。その態度は、時として神様に対する傲慢ではないでしょうか。主イエスは「パン種」に気を付けよと言われました。傲慢というパン種です。パンが、わずかなパン種で膨れ上がるように、ぶつぶつと発酵し膨れ上がっていくのです。

確かに、有り余るほどのパンが今はただ一つしかありません。しかし実は、そのただ一つのパンとは、イエス・キリストその方を指しているのではないでしょうか。私たちの人生の舟の中に、この札幌北光教会という舟の中に、唯一の命のパンである主イエスが確かに最後までおられるのです。

主は言われます。「まだ分からないのか。悟らないのか。目があっても見えないのか。」続く8章22節からは、盲人の目が癒されるという物語が続きます。主イエスはその人の目に唾をつけ、「何か見えるか」と面と向かって語って下さるのです。皆さんには失われることのない一つのパン、イエス・キリストが見えるでしょうか。

パンはギリシャ語で「アルトス」と言います。説教題「一つのパンがアルトスる」とは、「仮の話として」という意味ではありません。信仰とは、仮の話ではないのです。「仮にパンがあるとしよう」ではないのです。たとえ目に見えなくとも、今、ここに、わたしの人生の舟の中に、イエス・キリストという命のパンがある!としていく、そうだと信頼をもって心の目で見ていくということです。このパンこそが、私たちを初めから満たして下さってきた神の愛を証しするしるしです。

このパンがあるからこそ、私たちはこう告白できるのです。「わたしには何も欠けるものはない」(詩編23)と。そのように皆で共に告白していける豊かな群れとなっていくために、共にこの一つのパン、つまり神様の一つの愛を、もったいぶらずに、また恐れずに互いに分け合う者とされていきましょう。そこに思いがけない御業が秘められているのです。(説教後、聖餐式執行)

前のページに戻る

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について