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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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「まことの」ぶどうの木
主イエスは、イスカリオテのユダにぶどう酒に浸したパンをお渡しになり、ユダは確かにそれを受け取って夜の闇に姿を消していきました(ヨハネ福音書13章)。ユダが受け取ったパン、それは果たして「裏切り者のしるし」だったのでしょうか。「わたしは命のパンである」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(同6章)。その約束が、あのパンにも確かめ込められている、そう思うのです。
15章は、その場面からの続くものです。ユダが席を立ち、またペトロの離反が予告されたその場の雰囲気は明るいはずがなく、夜の闇に相応しく静かで悲しく重たい時間です。裏切りと死が迫るその状況で、主イエスはあの言葉を弟子たちに告げるのです。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1節)
単に「ぶどうの木」ではなく、「まことの」ぶどうの木です。この一語には、主イエスの永遠性、不滅性が言い表されています。すなわち、主イエス・キリストという木は、たとえ切り倒されても朽ちることなく起き上がる木であるからこそ、それは「まことの」ぶどうの木なのです。
もしも、キリストが十字架で死んで終わりだったならば、そこにつながっている枝としてのわたしたちには、なんの希望もありません。木もろとも朽ち果てるのみ。神の愛が十字架の死で終わってしまったのならば、わたしたちの讃美も、説教、献金も、洗礼も聖餐も、なに一つ意味のない空しい営みです。すべては「わたしはまことのぶどうの木」との約束ゆえなのです。
イエス様は幹であり、わたしたちはその枝です。枝は自らの信念や熱意だけで幹にしがみつくことはできません。重要なことは、ただ主イエスがわたしをつかまえ、つながっていてくださる事実を忘れない、その恵みに生かされてあるということです。

つながりのしるし
「実を結ばない枝は取り除かれる」「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられる」(1、6節)。これは既に席を立ったイスカリオテのユダのことでしょうか?いいえ、農夫が剪定するならば、主を見捨てて逃げ出した他の弟子たちも同様です。わたしたちもまた誰一人として相応しい者はいないと言わなければなりません。
ペトロとユダ、わたしと○○、どちらがマシか悪質かなどと、己の尺度で比較しても仕方ありません。いずれも自らの力で主イエスという木につながっていることはできないことに変わりないのです。主の愛を知ればしるほど、自分がどれだけその愛を裏切るような生き方をしてしまっているかを知らずにはおれない。しかし、だからこそ主イエスは「わたしはあなたにつながっている」と言われるのです。ユダがあの時、主イエスから手渡されたパンとは、「裏切りのしるし」ではなく「つながりのしるし」です。
復活の主イエスの手と脇腹には釘と槍の傷跡がくっきりと残されていました。それは弟子たちにとって、そしてわたしたちにとっても、主に対する裏切り、背きの証しです。しかし、復活の主は、その手の傷をおぼえながら、なおその手で「私はあなたにつながっている」と呼びかけておられるのです。

わたしがあなたを選んだ
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16節)。何度読んでも本当に感謝すべき言葉です。というもの何度もこのことを忘れるのです。これがぶどうの木と枝の関係、主イエスと私たちの関係です。枝が木を選んだのではなく、枝は木から生まれたのです。枝の先にまでキリストの命が通っている、愛が脈を打って働いているのです。そう考えますと、「主はいつもわたしと共におられる」(インマヌエル)という表現は、もはや不十分です。「主は絶えずわたしの命そのもの」なのです。
そもそも農夫が、ぶどうの木を植えたのはなぜでしょうか。鑑賞用ではなく、実りを得るためです。そういう意味では「ありのままのあなたでいいよ」という話では終わらないのです。主イエスという木によって私たちが生き、そして実りをつける。そのことを神は願い、枝は生み出されたのです。その実りとは「互いに愛し合いなさい」今日読まれた最後の一句に集約されます。木が報いを求めずに枝へと水分・養分を伝えるように、まことのぶどうの木は今日も立ち続け、その愛が枝先にまで伝わり、なお広がり続けるのです。
教会総会が行われます。決算、宣教方針、それに基づく予算、重要なことが話し合われます。沢山の困難な課題があり、だからこそ展望も与えられます。そこで私たちは、主の愛に共に与り、結ばれているものであるという感謝、一人ひとりが主の愛の御業の先端部分なのだということを自覚しながら臨みましょう。

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