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イエスと言えば、「山上の説教」における「幸福の宣言」が印象的ですが、福音書には時折、イエスが憤るという場面もあり、この個所は幸いの宣言に対比するような不幸の宣言とでもいう場面です。

叱られているのは人ではなくて、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムというガリラヤの町々です。しかも、イエスの活動の中心地であったと推察されている町の名前なのです。

それと比べられているティルスとシドンは、地中海沿岸の港町、貿易によって非常に栄えた町でした。栄えたが故に、常に地中海の支配者たちの標的にされた都市でもあり、もっとも進んだヘレニズム文化の象徴のようなところでした。それはユダヤ人から見れば、「異邦人」の象徴でもあり、呪わしいものと思っていたのです。

ところがイエスは、ガリラヤの町々に比べたらティルスやシドンはましだといったのです。そしてガリラヤの町々は不幸だと宣告したのです。しかもそのガリラヤの町々はイエスの親しかった町です。そこに住み暮らし、愛の業を行い、真理を親しく語ってこられた町でした。その町にたいして不幸を宣言するとは、実に意外なことでした。

イエスはなぜ、こんなに怒っているのでしょうか。エルサレムに向かう旅に際して、伝道が不成功に終わった腹いせに怒りをぶつけているのでしょうか。けっしてそんなことではないでしょう。

ある聖書学者は、ここにはルカが書いた時代の教会を反映していると言います。ガリラヤ地方は、エルサレムから散らされて逃げていったキリスト教会をうけいれられなかったのだが、彼らはさらに先へと逃れていき、シドン、ティルスにたどり着き、そこで受け入れられたという歴史的背景があるというのです。

たしかにそういう歴史的背景があるのかもしれませんが、それだけでこれほど辛辣な(そう読めてしまう)不幸の宣言を書く必要はあるでしょうか。この場面を記すときに、ルカは、もっと普遍的なことを伝えたかったのだと思うのです。つまり、イエスが親しく行動し、ことばを残したあの町々にたいして、あれだけのしるしを見ながら、あれだけのしるしを経験しながら、お前たちはまだ、主イエスを信じないのか。なぜそんなにお前たちは傲慢なのかと。

ここであげられている町がイエスの愛した町であったということに読み解くポイントがあります。

イエスは悔い改めない町を叱るのですが、つまりこれは、悔い改めない人間を叱っているということではないでしょうか。つまり、その対象は我々だともいえるのです。「こんなにも大きな恵みと導きの中にいながら、まだ、お前たちはわたしを信じないのか!」イエスの恵みを受けながら、心頑なにイエスを信じようとしない私たちなのです。

イエスは叱ります。厳しく叱ります。それはイエスがガリラヤの町々が憎いからではありません。むしろ、愛しているからなのです。その愛している存在に、本心に立ち返ってほしいと願うからです。苦難に遭うとき、私たちは動揺し、混乱します。そして、神の存在を忘れ、狭量にも勝手に悲しんだり、絶望したりしている私たちに、神の道が備えられていることに気づいてほしいからです。愛するが故に、イエスは叱っているのです。

あれほどの恵みをあたられているのに、あなたはまだわたしを信じないのか!イエスはそう叱っているのです。いいえ、「見るべきものを見なさい」と叱咤激励しているのです。私たちのほんとうに見るべきものは、神の愛に満ちた「導きの手」なのです。

この不幸の宣言は、愛の故になされたものです。その証拠に、この叱っているガリラヤの町の人々のためにも、イエスは十字架へと進まれたのです。神はあなたの道を備えておられるのです。「神は備えたもう」そう信じ、祈り求めていきましょう。

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