札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >風は思いのままに吹く


ファリサイ派に属し、ユダヤ人たちの議員であったニコデモ。当時のユダヤ教社会における政治的・宗教的有力者です。そんな彼が、やがて十字架に死なれたイエスを手厚く葬ったのです(ヨハネ19章39節)。

ある夜、ニコデモは人目を憚るようにしてイエスを訪ねました。神殿の境内で大暴れしたあの危険人物イエスをです。到着するやいなや、ニコデモはイエスに伝えました。「わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」。ファリサイ派の中には自分の他にもイエスを秘かに信奉し、支持する人がいるのだという事実を伝えたかったのです。

これに対して主イエスは言いました。「はっきり言っておく。誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。秘かに支持するだけのニコデモであることを、主イエスは良しとしません。彼が水と霊によって新たに生まれることを強く求めるのです。

同じ頃、洗礼者ヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けていました。それは「悔い改めの洗礼」でした。神に自分の罪を懺悔し心新たにする決意のしるしとしての洗礼です。しかし、主イエスは水だけではなく「霊」による洗礼と言うのです。「よし、これからは心を入れ替えて神の前に正しく生きていこうと改めて生きていこう」と決心する洗礼であるならば、それはどこまでも人間業に過ぎません。霊によってということは、その洗礼が人間業ではなしに、「神業」としての洗礼であるということです。人が己の決断によってではなく、むしろ神の愛の決断によって、その揺るがぬ愛の支配に捉えられて生かされるということです。そして、そうでなければ神の国に生きることにはならないと主は言われるのです。

自分がただ神の力、神の全き愛に包まれていることを、ただ一つの慰めとして生きるならば、生活の見方がすべてにおいて変えられてくるのです。日常の些細な出来事の中にも、あるいは人生の針路が狂わされるような時にも、そこに神の臨在を信じ、そこにある恵みを、新たな目で見、新たな口で語り、新たな耳で聞き、新たな手足で行うものとされるのです。その意味で、その人は聖霊によって日々新たに生まれる人なのです。

また主イエスは言いました。「風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである。」
時に人生は「風」に譬えられます。人の一生はどこからともなく吹いてきて、どこかへ消え去っていくようなものだ、と。詩編にも「瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(詩編90)とあります。人生とは諸行無常、儚いものだと言っているかのようです。どんな喜びも、どんな絶望も、一切は過ぎ去っていく。そのようなその儚さ刹那さに慰めを見出すようなことが時としてあるかもしれません。しかし、主イエスが言われる風とは、そのような人生のことではなく、「聖霊」という風です。聖霊の風は、人生の思いがけないところに吹き、また思いがけないところに私たちを立たせるのです。そうして聖霊は、私たちが、ただ神の愛の中に生じ、神の愛によって保たれ、神の愛に帰していくものであることを示します。その風に包まれて、思い煩いはすべて主に委ねつつ、御心がなされますようにと祈りつつ、日々を生かされていくところに神の国に生きる姿があるのです。

律法を遵守して生きてきたニコデモにとって主イエスのこの言葉は素直に受け入れられるものではありませんでした。「どうしてそんなことがありえましょうか」(9節)と困惑したのです。これは時の私たちの言葉でもあります。「神の愛の風に委ねて生きる?どうしてそんなことあるものか!」「どこに行くのか分からない、そんなあやふやなことは御免だ!」と心を堅くし、己に依り頼み、現状の変化を恐れて閉じこもろうとしてしまいます。神に息を吹き込まれて命造られたものであるにも関わらず、神の息である聖霊によって生きることを拒もうとします。
拒むニコデモに、主イエスは語気を強めて語るのですが、その頂点は16節です。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」。

神がその独り子を与えるほどの愚直な愛の現実を、やがてニコデモは十字架上に見出しました。「あいつは議員のニコデモではないか!」と訝しがる人々の視線を浴びながらも、ニコデモは憚らず主の亡骸を葬ったのです。ニコデモを神の国に新たに生かす風が吹き始めていました。

私たちは、神が独り子キリストを世に与えられたほどの愛に、生も死も飲み込まれています。人生の嵐が吹き心騒ぐ時も、また人生とは空しく儚いものなのだと結論づけようとしても、その人が自分は最初からなかったかのように消え去っても別に構わないと諦めていたとしても、神はそのようなことを決して望んではおられない、それが私たちのひとつの望みです。ニコデモに対して心を激しくさせながら、御心を教えた主は、私たちにも語りかけておられます。

聖霊、それは主の息づかいとも言えるでしょうか。復活され息を吹き返した主は、最も身近で私たちのためにその息を使っておられます。その息づかいは心と力を尽して私たちを担い背負い救い出す息づかいです。

前のページに戻る

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について