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49節から53節には驚くような事柄が書いてありました。イエス・キリストはこの世界に平和をもたらすためではなく、分裂をもたらすために来たというのであり、たとえば5人家族がいると、それが対立するというのです。

けれども、同じイエスが「平和を実現するものは幸いである」と言われ「7を70倍するまで許しなさい」と言われたのです。ですから、イエスは決して単純に分裂を勧めているわけではないはずです。

最初に「地上に火を投じるため」ということばがでてきますが、この火ということばから「焼き尽くす」という破壊的なイメージを持ってしまうので、その後に出てくる「分裂」も暴力的な印象をぬぐえないのです。

しかし、ここで言われている火は「かがり火」であり、「たいまつの火」です。その特徴は「闇を照らす光」なのです。

私たちは闇の中を生きているのです。すなわち、何が正しいか、何が間違っているかがよく判らなくなっているのです。薄ぼんやりと見えた気がするけれども、突っ走るとそこは全くの幻想であったりするのです。これが正義だと思い、これが道だと思い、そのたびに私たちは、壁や穴にはまっているような人生を送っているではないか。いや、そういう愚かな歴史を繰り返しているともいえるのではないでしょうか。

その闇の世界にイエスは火を投じたのです。光に照らされると、闇はその正体を露見します。イエスと出会った人間は、イエスの光によって闇の実相を見ることができるのです。すると当然、そこには本来自分が進むべき道が見えるのです。道が見えている人と道が見えない人が同じところに進めるわけはありません。だからイエスが来たことは、ある意味ではこの世界に分裂をもたらすことなのです。

けれども、それが家族の分裂までもたらすと聞くと、たじろいでしまいます。「宗教というものは、家族を失ってまで信じるものではないだろう」と考えたりします。けれども我々は、仲の良い家族が、ある時、利害が対立して親子が対立し、分裂することなど珍しいことではありません。

イエスが語る分裂は、意味が異なるのです。自分の利益をあらそう対立ではなく、イエスの光によって明らかにされた道に生きるかどうかの対立なのです。愛に生きるかどうかの対立なのです。愛によって対立することは、たしかに最初は苦しいが、やがてそれは真の和解へと向かうのです。

けれども、当初は対立し分裂しなければならないので、苦しいことには違いありません。しかし、イエスご自身が、あえてその道を選び取って下さったのです。あくまでも人として生き、人として愛し、死に至るまで愛を貫いたのです。それは苦しいことでした。しかし、真理の道だったのです。

54節から、イエスはここまでの話は弟子に語っていたのですが、ここで身体の向きを変えて、あるいは声の調子を変えて群衆に向かって「今の時代がどんな時代かを見分けなさい」と話しだしました。

57節以下をさらっと読むと、裁判に訴えられる前に、裏取引で手を打つほうが賢いと、処世術を語っているようで、イエスの言葉とは思えない卑屈な印象さえ感じることばです。

しかし、この裁判の比喩で訴えられそうになっているのは人間であり、この裁判は、神の裁きのことなのです。神の前に私たちを訴えようとしている人がイエスなのです。

神の前にイエスと共に出るその時が迫っているのです。それなのに人間は、その時を見分けることができないで、私利私欲に走り、目先の利益を追いかけて生きているのです。

それで良いのでしょうか。私たちが今なすべきことは何でしょうか。神の前に行く前に、イエスと和解することではありませんか。つまり、イエスの福音を受け入れ、イエスの言葉を信じ、その生涯を学び、そしてイエスと共に生きるものとなることではありませんか。 イエスと同じように愛の戦いを生きることではありませんか。

「こんなにあなたたちを愛しているのに、どうしてわたしを信じないのか。わたしを信じて安らかでいなさい。こんなにも神に愛されているのに、愛することに心を用いないで、心を騒がせているのか。安心しなさい。わたしは既に世に勝っている」とイエスは言っておられるのです。

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