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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
説教

■支離滅裂
イエスは、ファリサイ派や律法学者を「偽善者」「不幸」という鋭い言葉で公然と批判しました。律法に忠実に生きる外側と強欲、放銃、偽善、不法に満ちた内面という矛盾を突いたのです。「あなたたちはぶよ一匹さえも濾して除くが、らくだは飲み込んでいる」(24節)とあります。ぶよもらくだも律法では穢れたものです。ファリサイ派は、ぶよが混入している恐れがあるため、水や葡萄酒を飲む時にはそれを濾したと言います。それほど穢れに神経質である一方、実態としてはらくだを丸飲みしているようであり、支離滅裂だというのです。というのです。
後にパウロも、ユダヤ人の的外れな現実を繰り返し批判しましたね(それはかつての自己批判でもあります)。「あなたは他人には教えながら、自分に教えないのか」「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」。そんな欺瞞を指摘しました(ローマ2章17以下)。このことが行為義認のアンチテーゼとしての信仰義認という思想につながったのです。

■内面を盗み取ってはいないか
神はこの世界にわたしたちを造られただけでなく、わたしたちが生きていくために必要な糧をも与え養ってくださる方です。更には、神は、外側の体だけ養われる方ではなく、内側にある心も培われる方です。ところが、案外、私たちはこのことを忘れてしまっていて、「自分の内側は、自分の勝手だ」として心を神から盗み取ってしまうな生き方をする。強欲と放縦、偽善と不法で内側を満たしてしまう。神が与えてくださり、養ってくださるはずの内面をそのようにして汚してしまう。わたしたちはここに集う度に、そういう自分の内面を自覚させられるのです。

■負うべき責任
イエスの猛烈な批判は、かつての旧約の預言者たちが、その時代の王や祭司たちに警鐘を鳴らしたことに重なります。預言者たちは、イスラエルの堕落と背信を糺そうとしましたが、これを耳障りに思った人々によって迫害され、亡き者とされました。しかし、その結果、預言者の警告通り、イスラエルは亡国と捕囚の憂き目に遭ったのでした。この先祖の罪と挫折を教訓とし、また悔い改めの証として、ユダヤ人は、先祖が迫害し亡き者とした預言者たちの墓や記念碑を建てたりしたのでした。しかしそれでいて、「もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう」と義人ぶっている。イエスは、その偽りを見抜いていました。「あなたたちは先祖と同じ過ちを繰り返すに違いないし、その責任についてあなたたちは言い逃れすることはできない」というのです。そして、これまで繰り返されてきた数々の罪、多くの罪なき者たちの流した血、偽りと汚れに満ちたその歴史の責任と結果が、今、この時代のあなたたちに迫る時だというのです(36節)。今の時代の者は、これまでのすべての責任を負うているものとして存在しているというのです。もはや誰も負いきれないほどに繰り返され積み重ねられた罪の責任を負ったのは誰か、かく言う主イエス・キリスト御自身であったのだ、ということをこの箇所は指し示しています。

■穢れの共有
福音書には、病の癒しに関する奇跡物語が沢山納められています。中途失明した人の目につばを塗り二度手を置いて癒した物語(マルコ8章22節以下)。手で触れるということは、穢れが移るということを意味した社会で、イエスは二度、いや何度でもその手を当ててその人に向きあいました。癒しの奇跡とは、その人が負わされてきた穢れをイエスが共有した出来事です。イエスの十字架の出来事、それこそキリストがこの世の人間の、このわたしの負う拭い難い穢れを共有された出来事ではなかったでしょうか。もはや自分では負いきれないほどに繰り返され積み重ねられた罪という穢れを、その責任を、キリストはご自身のものとし、死ぬべき死を負ってくださった。そして、イエスは復活して今日、わたしに従えと招かれるのです。ここに私たちのまことの癒しが、解放がある、キリストにある新しい命があります。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ書6章8節)。わたしたちの歩みがなお内側に偽りを秘めてしまうものであっても、主は、何度でもその手を当てるように、神と共に歩む道を指し示し続けられます。キリストが幼子としてこの世に来られた、一粒の麦としてその命を蒔かれた、その謙りの道にある義と幸いを見つめたいと願います。

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