札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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2b それは、あなた方を励まして、信仰を強め、 3 このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちはあなた方を励ますべく存在しているのです。あなたがた自身よく知っているでしょう。(3:2b-3 大倉私訳)
1.次のように自分の境遇を説得される場面を想像したい。「あなたは苦しみを受けるように定められている。『悪い星の下』に生まれた宿命だから」。想像でもうなずけない言葉だ。「悪い星の下」を、人種、民族、性別、学歴、職業などの言葉に置き換えれば、答えは明らかだ。イエスならば、この言葉は全てを良しとされた創り主の前に決して受け入れてはならないと断じると想像しても的外れではないだろう。悪い星の下にという妄言で黙らせる言葉を「諦めを強いる宿命論」と呼ぼう。それでは次の言葉はどうか。「私たちは苦難を受けるように定められている」。パウロの残した言葉だ。これもまた宿命論か?
2. 「わたしたちは苦難を受けるように定められている」(3:3)というパウロの文言は、ギリシャ語原文に該当するフレーズがない。それにあたると思えるのは、ギリシャ語「トゥート」という一言だ。直訳は「このこと」。指示代名詞なので、それまでにパウロが語った何かを指し示す。つまり、私たち読者は「このこと」が何を指すのか解釈しなくてはならない。新共同訳は「このこと」を「私たちが苦難を受けるように定められていること」だと解釈したということだ。
3. 新共同訳の訳文をパウロの原文に即して再考したい。「このこと」という指示代名詞は、すでに読者に語られた内容だ。語られた内容はそれが出てくるすぐ前の節の内容を指すのが通常の用い方だ。その通常の用法に従って素直に読めば、パウロは前節で、「あなた方を励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするため」と語った。とくに冒頭「あなた方を励まして」が「このこと」だと読み取るのが素直だ。すると、パウロの言葉に筋が通る。パウロはテサロニケの人々に「このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするため」、そこで「あなた方を励ます」ために自分たちは「定められている」と言っている。
4. また、新共同訳の「…ように定められている」訳は、パウロの原文で「ケイマイ・エイス」。直訳なら「横たわっている」、つまり「存在する」の意味。パウロはフィリピ1章16節で、福音の弁明「のために自分は横たわっている」、つまり「自分は存在している」と言う。テサロニケ(1)に立ち戻って、再度、3章2b-3節を「…のために自分は存在する」で訳し直してみたい。「それは、あなた方を励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちはあなた方を励ますべく存在しているのです。あなたがた自自身よく知っているでしょう。」パウロは苦難のテサロニケの人々を励まし、強め、皆が動揺しないように働くのが、自分たち宣教者の存在理由だと言っている。
5. 私は、あえて日本語の翻訳にこだわってパウロの言葉を原文に即して読み直した。新共同訳3:3「わたしたちが苦難を受けるように定められている」だと、パウロの意図とかけ離れた危うい意味にも取り得ると思えて曖昧に見過ごせなかったからだ。パウロは苦難が自分たちの「定め」だと言ったのではない。苦難が定めなどと言うことは、イエスの福音を福音として理解している洞察か。パウロが、迫害による暴力を被る事態にもかかわらず、それを「苦難を受けるのは定め」と考えたとすれば、抑圧の暴力を被ることも「定め」と認める宿命論に通じる。そのような宿命論は、キリスト・イエスの福音とは相いれない考えで、パウロの考えではない。イエスの福音は抑圧の苦しみに諦めを促す宿命論への否!である。
6. イエスをキリストと証言すれば、当時のユダヤ教からの反発や攻撃は避けがたいことだった。それ故に、パウロは待ち受ける厳しい現実を予測し、迫害に遭うのも覚悟で福音を宣教した。パウロは3:3に「このような苦難」という。それはパウロたち宣教者の実体験であり、イエスに従う生き方を選んだテサロニケの同志たちが体験した苦難だった。しかし、パウロたちにせよ、テサロニケの人々にせよ、激しい反発や迫害に直面しても、その苦難に耐え抜く体験も分かち合ったことを記憶したい。当時のローマ帝国支配下のユダヤ教は、諸宗教の中でも優遇を受ける立場を享受した。そのユダヤ教が帝国の権力者を後ろ盾に、弱小集団に過ぎなかったイエスの群れに加えた圧力は、逃れようのない苦難だっただろう。しかし、小さな群れは抑圧の苦難に耐え抜いて、新たな人間連帯の歴史を刻んで行った。
7. その苦難の直中で、パウロはテサロニケのメンバーを強め、信仰に立つように呼びかけるため、自らは願い叶わずテモテを派遣した。テサロニケの人々が動揺しないことを願ったからだ。パウロは、人々を励ます働きが自らの存在の意味だと伝えた。再度強調したい。今日の3節の言葉は、パウロが苦難を諦めて受け入れるという宿命論を語った言葉ではない。むしろ、イエスに従う者が、それを妨げようと強いられる苦難に直面する時、その時こそ、その苦難に打ち負かされることなく、いっそう深くイエスに結ばれ、イエスと共に神への信頼と隣人への奉仕を生きる。そのために、パウロが力を尽して苦難に立ち向かう人々との連帯を語った言葉だ。
8. 連帯を生きるパウロやテサロニケの人々の覚悟を私たちもこの時代に受け継ぎたい。私はかつて次のような経験をした。ブラジル北東部の貧困地域で、非人間的な貧しい暮らしを強いられた人々の間で働くカトリック神父に会った。その神父の一言。「貧しくされた人々に福音を届け、福音に力を得て人間らしく生きようとすることは、諦めの宿命論との闘いでもある」。パウロが紀元一世紀の東地中海の一角で従ったイエスの宣教は宿命論との闘いだった。私たちが現代世界の一角で招かれているイエスの宣教もまた宿命論との闘いでもある。人種、民族、性別、学歴、職業、国籍の違い、障碍の有無、貧富の差、時には宗教をもって分け隔てを正当化にしている場合も、それらの違いの線に沿って、人々を分断し、侮辱し、支配する力が、世界で再び勢いを増している。それらは装いを新たに立ち現れてくる。しかし、相変わらずの宿命論がその背後に顔をのぞかせる。神の国は、宿命論を打ち破り、分断された人と人とを公正と和解に招く力だ。その力は、たとえどんなに小さく見えても、小さな私たちの、一人一人の日々の小さな一歩一歩に宿っている。Ω
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