札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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◆「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。これは弟子たちに、天の国の扉の鍵を開け閉めする絶大な権限が与えられたということではありません。あなたがたの生き方(愛)、とりわけ一人の弱く小さくされた存在に対するあなたがたの生き方を通して、天の国は、人々の間で見出されもするし、あるいは反対に全く閉ざされて見えなくもなる、ということです。あなたがたは世にあって天の国を豊かに表すような生き方をしているか、それとも天の国を覆い隠すような、あるいは妨げるような生き方をしてはいないか。主イエスは、そのように弟子たちに対し、そしてわたしたちに対して問い掛けておられます。
◆主イエスが話しをしていたその時、「ペトロがイエスのところにやってきて言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。』」(21節)。赦しもまた愛の問題です。ペトロは率直に、愛や赦しにおいて自分には限界があることを認めつつ、上限「7回」を提示しました。そこには7回も赦す自分を誇らしく思う気持ちが秘められていたことでしょう。ところが、主イエスは「7回どころか、7の70倍までも赦しなさい」と彼に答えました。要するに、「赦しに終わりなんかないよ」というのです。
◆「7回も赦したのならば十分ではないか」とピリオドを打ってしまうならば、結局のところそこにあったのは赦しではなく、諦めであり、裁きであったのです。私たちには、「もうここまでだ」とピリオドを打つこと、自分が正義になって相手を完全に裁くことは許されていません。なおもその人に向き合い続けながら、赦しへの道を模索し続けることが求められています。なぜなら、わたし自身が、神様から限りなく赦され続け、愛され続けている者にほかならないからです。主イエスは、「天の国は次のようにたとえられる」(23節)と言い、莫大な借金をした家来が王によってその負債をすべて帳消しにしてもらったという話をされました。主イエスは、それがまさに、神の前におけるあなた自身のことなのだとおっしゃっているのです。あなたこそ限りなく赦されて生かされている者ではないか、そのことを忘れて、相手のことを「赦さない!」という生き方はできないはずではないか、と。
◆しかし、私たちはこの話に納得できないところがあるのではないでしょうか。「一体自分は神様から何を赦してもらったというのか」「自分が神様にどんな負い目があったというのか」「別に神様から赦してもらわなければならない罪を犯した覚えなどないのだが」と。「神様に対する罪」といわれても今一つピンとこないのです。ですが、まさにそのようにピンとこないところで、自分が一体どういう生き方をしてきた(しているか)を見つめてみたいと思うのです。たとえ話の後半では、莫大な借金を赦された家来が、自分から100デナリオン借金している仲間のことを容赦せず牢屋に入れました。自分が王に対して抱えていた負い目など、まるで無かったかのように、自分が正義になって独善的に相手を裁きました。これを読んで、私たちは「残酷で愚かな奴だ」と思うのですが、実にここに私たちの姿がこの世界の姿が描かれているということに、なかなか気づけないものではないでしょうか。私たちも、自分が正義になって、自分だけが中心となって、そういう意味で自分自身が神になりあがってしまってはいないでしょうか。このわたしを愛をもって作り生かしてくださっているまことの神様のことなどすっかり忘れて、自分が神になって、自分が命の所有者になって振舞っているという偽り、その的外れな在り方、これこそが私たちが莫大なまでに負っている罪です。
◆しかし、神様は、このわたしに「ピリオド」を打たれなかった。イエス・キリストの十字架の出来事を通して7の70倍までも、すなわち、限りなく赦してくださった。「あなたの神としてわたしは向き合い続けよう」と決意してくださった。そんな神様の愛と赦しの支配の中に置かれている(天の国に生かされている)わたしなのだということに気づかされたならば、「7回までですか」と誇らしく言うことなどできないのです。なお赦され続け、愛され続けていることを知りながら、この一人に向き合い続ける道を示されるのです。そこに天の国は見いだされるのです。
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