札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■信仰という岩
イエスはペトロに言いました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対応できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」。絶大な権威がペトロに賦与されたかのような言葉です。しかし、「信仰のみ」を重んじるプロテスタントの立場から解釈すれば、これはペトロという一人の人間に権限が与えられたということにはなりません。ペトロがここで言い表した「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰を「岩」・としてこそ教会は立つのであり、それなしに教会は、砂の上に建てられた家と同様に倒壊してしまうということです。「イエスこの方にこそ救いがある」、この信仰は、人間の知識、思考、認識が創り出すものではなく、ただ神から頂く賜物です。神がこの私に与えて下さった賜物としての信仰ですから、私たちは、例えば、人生の煩わしさ、悩ましさの中で無くしたり、譲り渡してしまってはならないのです。わたしたちはどんなに小さな群れであっても、この時代の中で神の招きに応えて、イエス・キリストに結ばれ、イエス・キリストに従って歩もうと決意した一人ひとりです。目に見えるものによって翻弄され、誘われるのではなく、目に見えない神の愛、その憐れみによってこそ生かされ、導かれていることを知り、感謝と信頼をもって歩み続けていくのです。そのために、互いにここに集められ、信仰の仲間に出会わされ、祈り励まし合い助け合いながら、信仰の旅を共にし、またそこで神の御業に仕えていくのです。
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。これは、わたしたちのキリスト者として姿勢や言動が誰かにとって神の愛に出会っていく大切なきっかけともなれば、その反対にもなり得るということです。キリスト者は世にあって僅かな存在であろうとも、神との出会いをもたらす扉、器としての大切な使命、役割を持っているのだということです。来年130周年を迎える札幌北光教会が、ここからもこの地上においてイエス・キリストにある救いにしっかりと立ちながら、天上と地上、すなわち神と人に仕える器として用いられ、導かれていきたいと思います。
■神の事柄を思わず、人間の事柄を思う誘惑
イエスは弟子たちに、ご自分に定められた必然としての苦難と死、そして三日目の復活について打ち明けました。すると、ペトロがイエスを脇に連れ出してこの発言を諫めたのです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)と。しかし、イエスにとってその言葉は、ご自分の進むべき歩みを止まらせようとするサタンの試みに他なりませんでした。サタンは、身近な存在愛すべき弟子ペトロの言葉に宿ってイエスを惑わしました。「お前も結局、自分の身の安全が第一だろう?」、「どうして苦しめられ、殺される必要があるのか」「お前はただ自分自身のために、平穏に生きれば良いではないか」と。私たちの身の回りには、自己満足や自己保身、自分しか愛そうとしない生き方、そのような社会へと誘う言葉や思想で溢れています。人を傷つけ、自然を壊し、なお無関心でいられてしまうのです。自分の損得勘定だけ、自分の平穏無事や、成功とか勝利、それが幸福であると思い込ませるのです。そんな利己主義という名のサタンが猛威を振るっています。ここで「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(23節)とのイエスの言葉に、はっと覚まさせられるならば幸いです。神のことを思わず、人のことを思う、それは、「神を畏れず、人を恐れている」ともいえるでしょう。この世が、今日一日が、あるいはこの一時さえも、何によって深く支えられ保たれているか、そこを見つめずしては、私たちは延々と表面的な波風に心騒がせ、本当は何の頼みにもならないものにしがみつく、藁にもすがる生き方を繰り返しているだけなのです。
■自分を捨て、自分の十字架を背負う
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。
イエスは、試みを退け、定められた道をなお進もうとされます。そして、その歩みに弟子たちを招きます。その招きは、自己保身や自己満足に囚われる自分を捨てることを要求しています。イエスと共に生きるということは、利己を捨てること。自分の十字架を背負うということは、その苦しみを味わうということ。この招きに応答するのは簡単ではありません。一生掛かるかもしれない。しかし、問われているのは「一生」ではなく、「いま」という一瞬一瞬に他なりません。イエスは私たちの一時一時に立ちたまい、そのように呼びかけ招いておられます。
「自分を捨てる、苦しみを負う」。それは主イエスがそうであったように、自分を他者のために捧げることであり、他者の苦しみを自分のものとして分かち合うこと、そういう道であります。イエスがどこまでも他者に関わっていかれ、自らを献げられた、それがわたしたちの進む命と幸いの道であって、自己満足や自己実現という方向ではありません。仕えられるためではなく仕える者になること、人を自分の支配下に置くことではなく、すべての人の僕になること、毎週、前にしているこの十字架は、その道を私たちに示しています。
イエスは「あなた一人で行け」と言われるのではないのです。「わたしに従いなさい」と、「わたしが導く」と約束しておられるのです。苦難と死の先にある復活を予告された主イエスなのです。受難節のこの時、「わたしに従いなさい」。その招きに一歩でも二歩でも応えて、キリストにあるわたしとして自分を捨て、十字架を背負っていく時としたいと願います。
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