札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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韻を踏む人間の罪
「歴史は繰り返さないが韻を踏む」(History doesn’t repeat itself, but it rhymes.)歴史上では、全く同じ現象が起こることはないけれど、類似した事は確かに起こる、といった意味です。自然の営みも、人間の営みも、多くが韻を踏んでいる、同じリズムを刻んでいるように思えます。
パウロは、8章に至るまで、世の人間が陥っている罪の現実について解き明かしてきました。すべての人間が、罪という一点において等しいというのです。神である方への畏れを失い、感謝を忘れ、それゆえ、むなしい思いに耽り、心鈍く暗くなり、偽り、欺き、不和、を繰り返し、欲望のままに生きてしまっている。人間は、「韻を踏む」ようにして罪の歴史を生きている、「罪のリズム」が無意識的に備わっていて、自分では決して克服できないでいるのです。パウロは、そのように神を忘れ、背を向け、罪の奴隷として生きた挙句に与えられる報酬とは「死」であるといいました(6:23)。それは単に肉体的な死という意味ではありません。神の前における死、創り主である神との関係の死です。それは、その人の存在の意味も価値も無とするものです。する意味も価値も、はじめから何もなかったものになってしまうということです。創り主である神から離れては、誰も自分という存在の価値も意味も保証できないものであるからです。
パウロは、自分自身を含めた人間の罪の悲惨を見つめました。しかし、その悲惨を見つめればこそ、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事が、圧倒的な救いの光として迫ってくるのです。神がイエス・キリストを、罪ある人間と同じ姿でこの世に遣わし、その十字架の死をもって世の罪を処断されたということ、イエス・キリストが十字架で罪人として死なれた時、すべての人間がキリストと共に罪人として死に、しかし、復活のキリストに命に与って、今や神の子として神に対して生きるものとされたのだということ、その恵は、単なる観念ではなく、どのような悲惨で困難な現実をも圧倒する、リアルな恵みなのです。
■勝ち得て余りあり
37節の言葉は、口語訳では、「わたしたちを愛してくださった方によって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」です。
「勝ち得て余りがある」とは、ギリギリの勝利、やっとこさの勝利ではなく、いわば「余裕勝ち」というような意味です。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
未来永劫、天地万物、生老病死、何をもってしても、神の愛はあなたを離さない、覆らない。一ミリたりとも、その隙に入り込んで妨げることはできないのです。この恵は、すべてのものに等しく分け隔てなく、すべてのものがその罪のままに、キリストの命へと、神の愛へと招かれているのです。それほどに高らかに、完全たる神の愛の勝利がたたえられている箇所です。
一年前の8月、教会員のTさんが召され、その葬儀の中で、一つの詩「死よ驕るなかれ」(ジョン・ダン)を紹介しました。「死よ、驕るなかれ。汝を強く恐ろしいという者もいるが、そうではない。汝が倒したと考える者は死にはしない。愚かな死よ、汝は私を殺せないのだ。…束の間の眠りの後、我々は永遠に目覚める。もはや死はない。死よ、汝が死ぬのだ」
これは死に対する勝利の宣言です。誰も避けられない絶対的な力である死、誰をも失望と虚無に陥れる死、しかし、やがてはこの死こそが死ぬ、空しくされるのだ、と。これはキリストの復活に示された福音そのものです。イエス・キリストの納められた墓が「空っぽ」であったと福音書が証しするように、死こそが空っぽとされるのです。
■神の愛の決意にとらえられて
礼拝堂に並べられた多くの逝去者の写真を前にする時、すべてのものが死ぬる定めにあるのだという事実を示されています。死に至るプロセスがそれぞれ違うだけで、皆必ずその時を迎えます。わたしたちは常に生の中に死を秘めています。しかし、この写真を前にする時、わたしたちは勝ち得て余りある神の愛のゆえに思うことができます。生きるにせよ、死ぬるにせよ、神の愛が何一つ損なうことなくこの方々を、そしてわたしたちを完全に捉えている、「わたしはあなたを愛する」という神の決意が、この写真の奥から響いてきます。
この愛にあって、なお私たちは互いに神の子として向かい合っているのだということを覚えつつ、この方々がそうであったように、私たちもまた、主に生かされ、主によって用いられて、自分の走るべき道のりを終わりまで、主を見つめ、共に賛美し、共に助け合いながら歩み通していきたいと願います。
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