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「ボーっと生きてんじゃねーよ!」という言葉が流行っています。ボーっと生きられたら、どんなに楽でしょうか。しかし、「ボーっとせずに生きる」目的は、「ボーっと生きる」ためではないでしょうか。ボーっとしてても何の心配もいらない、ボーっとしててもだれも傷つかず、悲しむことのない世の中が実現するために、いまは、「ボーっとせずに生きる」ことが求められていると思うのです。

ヘブライ人への手紙4章では、「安息」がテーマになっています。創世記2:2〜3では、神さまが6日間の天地創造の後、7日目にはその業から離れて休んだとあります。このことから、いわゆる十戒において、毎週土曜日は人も仕事を休んで礼拝する日であると定められています(出エジプト記20:8〜11、申命記5:12〜15)。ユダヤ人にとって安息日は、ただの義務以上に、自分は神さまに特別にされていること、自分を捕らえるいかなるものからも神さまは救い出してくださったという証明といえるでしょう。しかしながら、イエス様が生きていた約2000年前の時代には、この十戒、あるいは十戒を含む律法全体が、人と人との間で、お互いを裁き合い、排除と差別を良しとする道具として用いられるようになってしまいました。律法を守れないやつは神さまからの救いを無駄にしている罪人だ、お前は神の民の一人ではない、と。律法の存在意義は、それを守り続けることで、神さまに守られて生きるという平穏のためにあります。しかし、その実態は、律法を守れないことを怒る神さまのイメージを勝手に造り上げ、その恐れから自分よりも律法を守れていない人を罪人だと差別して安心感を得るという、平穏とはほど遠いものでした。そんな中で、土曜日の安息日は、果たして休まる日といえるのでしょうか。

ヘブライ人への手紙の著者は、安息日が安息になっていないと、指摘します(4:6)。人間は休むことをできていませんが、だからといって神さまは安息日を取り消すことなく、残してくださっています。そして、著者は本物の安息日について語ります(4:7)。それは、神さまが備えている本当の安息日は、毎週土曜日ではなくて、「今日」と呼ばれる特別な1日である、ということです。その日がすべての人にとっての安息日であるからこそ、本当の意味であらゆる仕事から離れられる日なのだと(4:10)。そして来る1日へと、真の安息日を目指して、互いに声を掛け合おう、と言うのです (3:13)。当時のユダヤ人社会では、律法を守れなければその人は排除されて差別されました。しかし、人間一人ひとりは、神さまにそのすべてを知られているということから、人はだれもが律法を守れない弱さをもっていて、神さまに背いて罪に陥りやすい弱さをもっていることまで知られています(4:12〜13)。弱さをもつ者同士だからこそ、裁き合いと仲間はずれではなく、互いの声かけが大事なのです。著者がユダヤ教の慣習から抜け出して、このように言えたのは、次の言葉にあります。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです(4:15)」。ユダヤ教の大祭司とは神殿での礼拝で、神さまの赦しを乞うために動物の生け贄を献げる役割を担っています。そしてイエス様もまた、生け贄を献げる役割をもっています。その生け贄とは十字架刑によって献げる自分自身の命です。イエス様は、罪がないのにもかかわらず、十字架の受難という試練を負いました。十字架上の姿は、神さまと人の前でさらけ出した罪人の悲惨な姿です。イエス様は、あえて罪人と同じになってくれたからこそ、人間の罪に委ねがちな弱さを同じように感じることができるのです。そして、イエス様が献げた自分の命は、大祭司が何度も何度も献げる生け贄とは違い、ただ一度きりのものです。しかしその一回が「罪を永遠に赦す」という神さまの愛の証しです。そうして、すべてをさらけ出されているわたしたち人間は、一緒にすべてをさらけ出してくださったイエス様と共に、堂々と赦しの神さまのもとへと近づいていくのです(4:16)。

一回一回の安息日には、来る真の安息日を再現するという意義があると、わたしは思います。それはちょうど、キリスト者が繰り返し行う聖餐式によって、ただ一度、十字架につけられて御自分のすべてを献げたイエス・キリストを思い起こすように。毎回の礼拝によって救いが成就する約束の日を思い起こすように。真の安息日、それはすべてのことから離れて神さまと共に永遠に生きることです。イエス様がわたしたちのために十字架につけられたその事だけはボーっとせずに受け入れて、本当の意味でボーっとできる時を目指して、これからも生きて参りましょう。

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