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■信仰のない時代
少年の病を癒すことができなかった弟子たちは、律法学者たちと「議論」していました。律法学者たちはおそらくこのように主張したことでしょう。「この子の病気は、本人もしくは両親が犯した罪の結果なのだ。神に背いた結果与えられたこの病を取り除く権威など人間にはないのだ」と。一方、何もできなかった弟子たちは、自分たちの無力をあたふたと言い訳し、その場を取り繕おうとしていたのかもしれません。そこに現れたイエスは憤慨して言われました。「なんと信仰のない時代なのか」「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。今ここで苦しむ者がいる現実をよそに、人の罪を責め立て、また何もできない自分について言い訳をする光景にイエスは「信仰のない時代」というものを見たのです。そして、イエスは、彼らの議論の中に加わらず、ただその子と父親と向かい合うのです。イエスは、汚れた霊に向かってこう告げました。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊。私の命令だ。この子から出ていけ」(25節)。この少年は、自分の思いを語ることも出来なければ、人の呼び掛けを聞くことも出来なかった。そのように少年を苦しめていたこの汚れた霊の正体とは、苦しむ者を遠ざけ、孤絶させ、語ることも聴くこともさせない社会・時代そのものなのだと言えるでしょう。そのような中で、イエスは、この少年の声を聞き、またこの少年に呼び掛け、そうして彼の存在に向き合い、彼の存在の尊さを示されたのです。そこにこの少年の本当の意味での癒しがあるのです。
後で弟子たちが尋ねました。「なぜ、わたしたちにはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」。何がダメだったのでしょうか?」。イエスは「祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われました。「あなたがたには祈りがなかったのだ」と。弟子たち、律法学者たちに本当に必要だったことは、罪を責め立てたり自己弁護することではなく、この少年のための心からの祈りでありました。信仰のない時代、それはすなわち「祈りなき時代」とも言えるでしょう。

■主は真実な方
祈りがなかったとは、神への信頼がなかったということです。「どうせ神は聴いて下さらない、応えてくださらないのではないか」「祈っても仕方がないのではないか」という不信頼。それは、少年の父親についても同じでした。父親は、イエスに対して「できれば、癒して下さい」と願いました。しかし、イエスは、たとえ父親の願いであったとしても、「できれば」というこの一言を聞き流せませんでした。「できれば」という言葉は、「できないかもしれない」という思いを含んでいます。つまり、この父親は、イエスのことを「できる・できない」という人間的な可能性の次元、人間的なものさしでしか見ることができていなかったということです。このことをイエスから問い質された時、父親は改めてこう言いました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)。一見、矛盾した言葉でありながら、どちらも本当の言葉です。父親は、自分が所詮人間的な可能性や願望の範囲でしか信じていなかったと告白しているのです。そのような信仰がどんなに不真実で、脆く揺らぎやすいものでしかないか。その上で「信じます」と言うのです。それは、「イエスよ、あなたこそ真実です」という告白です。「真実なのは、自分の信仰ではなく、イエスよ、ただあなたです」と。
いつの時代でも人間は、自分の願いや恐れに捕らわれ、可能性というものが揺らぎ、つまずくけれども、主はその人間に対し、絶えず真実な方として私たちに向かい、私たちを導かれるのです。そのように決して欺くことのない主であると信じるところで、私たちはまことに共に祈り始めることができる、他者のために、自分自身のために。真実な主の御手の中にあるということを信じればこそ、苦しみも悲しみも受け止め、共にそれを担い合いながら生きていくことができるのです。
「なんと信仰のない時代なのか」、この主イエスの言葉は、今日もこの時代の中で響いています。信仰なき時代、祈りなき時代です。人は皆、目に見えるものに確かさを求め、できるかできないかという人間的な可能性や願望の中でしか神を求めていない。だから、すぐに「祈れない、信じられない」「そのようなこと意味がない」と言って侮ってしまう。あるいは、人生の苦しみ不条理に悩む人の現実を前にして、その人を裁いたり、何もできない自分に言い訳をしたり、そういうことに終始してしまう。そのような信なき時代の中で、わたしたちはどこに主イエスを見出すのか。主イエスは、この時代の中で、真実な方として、何を語り、どこに眼差しを向け、誰と共におられるのか、今日の箇所が良く示しています。わたしたちは、この時代の中で、主の真実を信じて隣人のために祈り、主の真実な導きの中を隣人と共に生きていくものとして召されているのだということを知りたい。そして、「わたしに従いなさい」と呼び掛ける主の声に従って、この世へと出かけていきたいと願います。

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