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■生活費すべてを…
神殿の境内で大勢のお金持ちが沢山献金を入れている中、一人の貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を献げるのを主イエスは見かけました。主イエスは弟子たちを呼び集めて、「彼女こそ、だれよりもたくさん献げたのだ」と言われました。この物語は、キリスト教会の中で献金について考える時、模範的な例として取り上げられてきました。「貧しいやもめが生活費すべてを捧げ、心を尽くし、力を尽くして神を愛したように、皆さんもぜひ、精一杯神への献身のしるしをささげましょう」という具合に。しかし、今、統一協会内部の深刻な献金問題と重ね合わせてみる時、そのような聖書の読み方は必ずしも正しいことではないのでは?と考えさせられます。12章40節に律法学者が「やもめの家を食い物にし」ていたことを見逃してはならないと思います。律法学者は、数多くの掟を人々に負わせていましたが、そこには献金についての規定も細かくあったのです。このやもめが献げた「レプトン銅貨」というのは、1円玉と同じようにユダヤ硬貨の最小単位ですが、一説によりますと、これを1枚だけ献金することは、献金ではなくかえって神様を軽んじる行為として禁じられていたと言います。そうしますと彼女は、1枚だけを献げるわけにいかず、2枚つまり生活費全部を献げなければならなかったのです。彼女はその後、どうやって生活することができたのでしょう。これは決して、模範的の姿としてだけ読まれるのではなく、そこにあった搾取の現実を見なければならないでしょう。

■この一人に目を注ぐイエス
主イエスが、この事実を見抜いていたとするならば、彼女が生活費すべてを献げたことについて「この人は誰よりもたくさん入れた。素晴らしい!」と称賛したり、「彼女を見習いましょう!」と奨励しているのではなくて、むしろ、彼女を掟によって束縛し、そこまで追い詰めてしまっている律法学者や、それを当然としている社会への批判として捉え直すことが大切ではないでしょうか。主イエスは弟子たちを呼び寄せて、「このように追い詰められた現実があるのだ」ということを教えたのかもしれません。
13章に入りますと、弟子の一人がエルサレム神殿を指して言いました。「ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい神殿でしょう」。しかし、主イエスは「立派に積み上げられたこれらの石は、一つ残らず崩れ落ちる」と答えたのでした。この立派な神殿がどのようにして建てられ、維持されているかと言えば、そこには搾取の現実があったわけです。主イエスは、この神殿の荘厳さに目を奪われるのではなく、一人のやもめにこそ目を注がれたのでした。

■「神を愛し、隣人を自分のように愛せよ」
統一協会が信者から献金をむしり取り、家庭に平和をもたらすどころか破綻させていたということが、元首相銃撃という事件をきっかけに表面化し、社会の批判に晒されています。その一方で、この状況に際して「我々はあのような団体とは違う」、「我々はやましいことは何もしていない」と一線を画し、自己正当化しようとしたり、沈静化するまでおとなしくしている団体もあるでしょう。自らの問題性、加害者性を省みようとしない自己欺瞞がないでしょうか。わたしたちは安易な仕方で、「自分たちは統一協会とは違うのだ、一切関係ない、正統的なキリスト教だ」と言うことはしたくないと思うのです。
すべてを捧げたやもめが、実は搾取された被害者であったのだということをお話ししましたが、イエス・キリストの十字架の出来事において同じことが言えます。主イエスは、この世のために十字架でご自身の「すべてをささげて」下さったのですが、それは一方で、この世によって十字架に追いやられ命奪われた「被害」の出来事であります。ところが、この世(私たち)は、自らの加害者性、罪責についてどれだけ自覚的を持っていることでしょうか。自分が普段、どれだけ神を傷つけ、神に背く生き方をしているか、そのことにはなんとも無自覚・無頓着になってしまっていないでしょうか。不用意な言葉や振る舞い、愚にもつかない噂話・作り話で人を傷つけても気づかないように、どれだけ神を貶める生き方をしてしまっているかを省みることがあまりに少ないのではないでしょうか。自らの罪責性、加害者性ということに注意するならば、わたしたちは、ただ他者の過ち、問題性を批判することで自分たちの正当性、潔白さを主張するということはできないでしょう。むしろ、「神を愛し、隣人を自分のように愛せよ」と主イエスが教えられた言葉を日々噛み締め、自らのあり方を深く問い、打ち砕かれていかなければならないのだと思います。そして、このわたしをそれでも愛し赦して下さった主の憐れみによって新たに起こされ、主イエスが立派な神殿ではなく、一人のやもめにこそ目を注いだように、他者の痛みや悩みに心を向け、寄り添う者とされたいと願います。

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