札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■かねて言われていた通り
主イエスは、ご自身の死と復活を三度にわたって語っていました。8章31節では、「人の子は、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、しかし三日の後に復活することになっている」と語られました。しかし、その時、弟子のペトロがその発言を遮るようにして、主イエスを諫めました。ペトロは、主イエスに対する自分の期待ゆえに、イエスの死の予告には取り合おうとしませんでした。また、11章で主イエスが再びご自分の死と復活を予告した時も、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、まるでその話を何も聞いていなかったかのように、「先生、お願いがあります。あなたが栄光をお受けになるとき、わたしたちの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と求めました。彼らも主イエスの言葉に向き合わず、自分たちの願望で心が一杯でありました。
そして、墓にやってきた婦人たちも同じです。彼女たちは、主イエスの死に対する失意に心を囚われており、主イエスがかつて語っておられた言葉を失念していました。このように皆が自分の思いで心を満たしてしまっていました。
■自分の十字架を背負って
主イエスは、ご自分の死と復活を語った時にどのようなことを話しておられたでしょうか。すなわち、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8章34節)と言われたのでした。それは、「このわたしと同じように、あなたもまた自分の思いに囚われず、かえって自分の思いを捨て、神様がその先で御心を明らかにされるところのあなたの十字架を背負って歩みなさい」ということです。十字架を背負う苦しみの先には、破滅と死があるのではなく、新しい命の歩みが始まっていく、そのことを信じ、わたしに従いなさい、と招かれたのでした。
また、自分たちの栄光を求める思いで心が一杯だったゼベダイの子ヤコブとヨハネには「あなたたちは、自分が何を望んでいるのか分かっていない。あなたがたはこのわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(10章38節)。「わたしが受ける洗礼」とは、十字架の苦しみのことです。つまり「あなたは自分の十字架という苦しみを背負うことができるか」と問うたのです。主イエスが他者の命に仕えるために自分を捨て、十字架の苦しみを担われたように、「あなたもまた人に仕えられるのではなく、人に仕える者としてあなたに託されている十字架を背負いなさい」と招かれたのです。それは苦しく、悩ましく、疲れることであるけれども、その十字架の先にこそ、あなたの魂が本当に望んでいる、まことの命がある、幸いがあるということを示されたのです。
主イエスは、ご自分の死と復活を予告しただけではなく、自分の十字架を背負ってイエスに従う者たちの新しい命をも告げておられたのです。そして、かねて言われた通り、主イエスは復活され、十字架の死の先にある新しい命へと歩み出されたということが知らされたのです。
■あのガリラヤで
白い衣の若者は言いました。「さぁ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」「あの方はガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。ガリラヤ、そこはとりわけペトロにとって特別な場所です。あの日、主イエスから「わたしについて来なさい」と呼び掛けられた地です。あのガリラヤで復活の主イエスに会うということは、実にそこから主イエスと共に歩むペトロの、自分の十字架を背負って歩むペトロの新しい命への日々が始まるのだということです。ペトロを導こうとされるイエスは、十字架に向かって再び死んでいくイエスではありません。その死から復活させられたイエスなのです。ペトロは、このイエスに、死や苦しみから命をもたらされる神の御心、その力と愛を信じて自分の十字架を背負い歩み出していくのです。
マルコ福音書16章は、エピローグではなくプロローグ(序章)です。そしてこの箇所を通して神様は、わたしたち一人ひとりに、主イエスと共に生きる始まりを告げておられます。
主イエスの十字架の死のゆえに、もはや完全に罪赦され、神に愛され生かされているものとして一歩を踏み出していくように求めておられます。「あなたの十字架を背負い、そこに込められている御心を信じて歩みなさい、そこにあなたの命がある」と。
復活の主イエスと共に歩む道というものがどのような道であるのか、マルコ福音書は既に主イエスの生涯を通して示してくれています。主イエスが友として、きょうだいとして、どのように人々に仕えられたでしょうか。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」との神の祝福を一人ひとりに注ぎ、この祝福を分かちあうようにして歩まれました。その姿に日々示されながら生きる時、この書物は、皆さんにとってまことに「福音の書」「いのちの言葉」となるでしょう。「ガリラヤで会おう」「ガリラヤから歩み出そう」、主イエスは今日、私たちをも招かれます。この礼拝の場を、わたしたちにとってのガリラヤとして、復活の主と共に歩み始めて参りましょう。
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