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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■イエスとペトロとあなた
ヨハネ福音書は元々20章で結ばれていました。そして、その最後を飾ったのは意外にもトマスでした。それは慰め深い物語であると共に、どこか煮え切らない思いを抱きます。「ところで、ペトロはどうなったのか?」と。主イエスが捕らえられた夜、「違う、わたしではない」と繰り返し弟子であることを否定し、それ以降姿が見えなくなったペトロ。そこで、「もう一つの結び」として、この物語が記されたのです。イエスとペトロの再会の物語、この話は創作かもしれません。しかし、「本当にそうだ」と思わせる主イエスの愛が豊かに描かれています。そして、これが他でもなく今日、主イエスとあなたの物語なのだと伝えているのです。

■手応えなし
なんの手応えもなく小魚一匹採れずに徒労感に包まれるペトロ。その空しさとは、その時の彼の心境とぴったりではなかったでしょうか。これから自分は何がしたいのか、どのように生きていけばよいのか、「これだ」という手応えのない空しさに包まれていました。そこにある時のわたしたちの姿を重ね合わせて読むことができるのではないでしょうか。暗い湖の上で、辿り着くべき向こう岸も見えず、「これだ」という手応え、確信のないまま、漠然と時ばかりが経過していく、自分はどう生きるべきか。私の歩むべき道はどこにあるのか。

■主によって見出されている慰め
夜が明け、岸に目を向けると、主イエスが立っていましたが、弟子たちにはそれが分かりません。その人は呼び掛けてきました。「子たちよ、何か食べ物があるか」。ここには、弟子たちよりも先に、主イエスが彼らを見出していたという慰めが語られています。墓の中のマグダラのマリアも、戸を固く閉じ、怯えていた弟子たちも、共通しているのは、主イエスの方が彼らを見出し、出会われたということです。主を良く理解できる時、信仰に燃えている時、そこで主イエスと出会うではなさそうです。むしろ福音書はその逆のことを伝えます。弱さ、惨めさ、無力感、希望するすべのないその時、あなたは主によって知られている。平和の主が、真実な方が共におられる。その事実にまことの慰めを得、それでも生きていく勇気を与えられたキリスト者の希望がここに証しされています。
主の言葉に従って網を降ろすと大量の魚が掛かった。これによって主イエスだと気付いた弟子の声にペトロは反射的に反応して、湖に飛び込みました。繰り返し弟子であることを否定したあの時のことがフラッシュバックしたかもしれません。そして今また彼は自らを否定するように、身を隠そうとするのです。しかし、隠れることなどできなかったのです。
そんなペトロのことを、主イエスは、岸で炭火が起こし、魚を焼きながら「さぁ、来なさい」と招かれたのでした。「なぜ隠れたのか」「あなたはまずわたしに言うことはないのか」「あなたはあの時自分のしたことを大いに恥じるべきだ」などと彼の失敗や恥を暴き立て問い詰める言葉は一切ありません。

自分がどれだけ深く愛され、どれだけ深く赦されているか、その条件なしの愛と赦しに自分が丸ごと包まれているということを知らされました。ペトロらは、大漁の魚が採れたことにも驚きましたが、何よりの驚きは、主イエスにとって自分たちこそが完全に捕らえられているということ、救い採られた者であるということでしょう。

■さぁ来て朝の食事を
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。この言葉はリップサービスではなかったのです。主イエスの存在を注ぎ込んだ決意です。わたしがあなたを選んだ、わたしが担い、わたしが背負い、わたしが救い出す。この決意がわたしたちの今日という現実の真ん中にあります。「あなたに平和」そう告げる主の平和が揺らぐことはないのです。
復活の主がガリラヤ湖の岸で魚を焼き、パンも用意してくれていました。私たちにもそのようなガリラヤ湖があります。わたしたちは、毎主日のこの礼拝のひと時においてこのことを追体験しているのです。復活の主が今日、私たちの真ん中に立ち、平和を告げ、パンと魚ならぬそのみ言葉の糧を私たちに分け与えて下さるのです。「さぁ、来て、朝の食事をしなさい。」その招きを受けて共に食卓を囲むのです。

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