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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■自己顕示欲
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」人間の自己顕示欲、自己陶酔、人からの評価を求める名誉欲の問題です。一見、愛の業のようで、実は自己愛に囚われている。そういう施しは、どこかで見返りを求めています。見返りが感じられないとなれば、「こんなに施してやったのに」という傲慢な思いが現れてきます。主イエスは祈りに関しても指摘します。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」。信心深く、謙遜な言葉で恭しく祈っているけれど、内心は人々の顔色ばかり窺っているのです。祈りという行為は、そもそも神に向かって語る以前に、神に心開いて聴くということです。そこから私たちの祈るべき言葉というものも与えられてくる。そうでなければ祈りというものはどこまでいっても、一方通行の自己主張や自己満足でしかなくなってしまうのではないでしょうか。
律法には、祈りについても施しについても細々と規定がありましたが、それで人の欲望を抑え込むことはできないのです。本来さりげない祈りや施しの業において、人は自分を顕示し、誇り、評価を求める心が強烈に働くのです。

■右手のすることを左手に知らせない
主イエスは、人の前での善行を戒め、個々の祈りについても、「奥まった自分の部屋に入って戸を締め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われました。しかし、ただ誰にも見えず、聞こえずにすることを求めているわけではないでしょう。他者と一緒に祈ったり、他者と協働して困窮者のために寄付することを禁じているわけではないでしょう。主イエスご自身、五千人という大人数の前で感謝の祈りをし、空腹の群衆にパンを施したのです。また、「あなたがたは世の光である。…あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(先週の説教)と言われました。それはむしろ、「隠していてはいけない」と真逆に意味に捉えられるでしょう。
結局、主イエスが「隠れたところでしなさい」というのはどういう意味なのか。それは、「自分自身を隠せ」ということなのだと思うのです。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」というのは、考えてみると変な言葉です。一つの頭でしているのですから、右手がしたことを左手が知らないはずはない。これは要するに、自分自身に対してそれを見せるな(演技するな)、自分に言い聞かせて得意げになるような、そんな自分を隠せというのです。
主イエスは、「そういう人は、既に報いを受けてしまっているのだ」(2・5節)といわれました。つまり、神からでなく自分で自分に太鼓判を押してすっかり満足してしまっている、自らを「義」としてしまっている、ということです。言い換えれば、神からの義、神が喜んでくださることなど、ちっとも求めていないのだという態度に他ならないのです。人の評価は気にしながら、神に対しては「神が一体何をしてくれるものか」と全く軽んじてしまっているのです。

■主の祈り
今日の箇所は、9節以下の「主の祈り」に続いています。主イエスが人々に教えられた祈り、それは、「わたしはこんなことをしました。こんなことができます」という主張ではありません。「神よあなたの御名があがめられるように、あなたの御国が来ますように、御心が行われますように。わたしに必要な糧を与えてください。わたしを赦してください。わたしを救ってください」と、すべては神であるあなたから与えられるものであるという信頼、あなたの心がなされますようにという信頼の祈りです。自分がただ神の愛と赦しと恵によって生かされ、支えられてあるものなのだということを見つめる祈りです。「すべてはあなたの御業なのです」と自分というものを位置づけなおす祈りです。他者を愛し、理解し、与えることよりも、愛され、理解され、与えられることを求めしまう自分を自由にする祈りです。

■すべては主の業、主の恵み
この自分が、他者にわずかでも仕えることができるのも、あるいは神に祈ることができるのも、すべては私を地の塩、世の光として生かしておられる神の働きであるということを知りたいと願います。神様がそのようにして、このわたしに今日という日を与え、導き、招き、用いてくださっている。それならば、誰がどう評価しようとも、神がそのことを知り、喜んでくださっていることを信じる時には、問題ではないのです。それは、まさに主イエス・キリストの歩まれた道であり、今日生きて共にあるイエス・キリストが「従いなさい」と招いておられる私たちの歩む道です。

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