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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■預言の成就
「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っている」。聖霊が降り、様々な国の言葉で神の御業を語っていた光景を、周囲の人はそのように嘲りました。
すると、ペトロは立ち上がり、声を張り上げて話し始めました。「今は朝の9時ですから、この人たちは酔っぱらっているわけではありません。そうではなく、これこそ、預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。するとあなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、その時には、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する」。
ペトロはこれが預言者ヨエルの言葉の実現・成就であると言ったのです。「終わりの時」とは、旧約の時代の終わりと言えるでしょう。神の救いは、ユダヤ人・イスラエルという枠組み、律法と割礼という枠組みを超えて、いまやすべての人に分け隔てなくもたらされる。聖霊によって、誰もがイエス・キリストに出会い、神の愛に出会い、神の子とされる、そんな新たな時代が始まったのだということです。

■普通ではない、ただならぬ恵み
まるで別人のようなペトロ。イエスの一味としてユダヤ人に逮捕されることを恐れ、逃げ隠れしていたはずのペトロが、タイミングとしては最も悪いユダヤ人の祭りの日に、公然と語り出した。このことは、ペトロが聖霊よって強められたことを物語っていることでしょう。イエスはもう目には見えないけれど、目に見える何ものにも増して確かな主イエスの愛と導きを確信して立ちあがったのです。これからは、自分の分別に頼らず、主が聖霊によって導きゆかれる、その導きを生きていくのだとするペトロのこの時の姿は、端から見れば、やはり普通ではなかったことでしょう。
毎週、主の日の礼拝を守る私たちの姿も、端から見れば、普通ではないでしょう。しかし、わたしたちが、礼拝を通して、人生のどんな悲しみにも、困難にも主の手が置かれている、私の罪も汚れも覆われ担われている、そこあるただならぬ恵みを共に味わい、分ちあう時、その姿通して、普通ではない神の愛、ただならぬ神の恵みが証しされていくのです。

■「若者は幻を見、老人は夢を見る」
預言者ヨエルの言葉です。これは現実が苦しいあまりに非現実的な夢・幻の方へと逃避するということではありません。むしろ、困難な現実の中で、なお失望しないこと、なおも希望するということです。聖霊の働き、それは一時の気休めのように夢・幻を見せてくれる力ではありません。聖書には、夢や幻を見るという物語が沢山あります。天に達する梯子の夢を見たヤコブは、不安の中で神が共にいて下さることを信じて、その場をベテル(神の家)と名づけました。ヨセフは、身ごもった妻マリアの事で苦悩と葛藤の中にあった時、夢の中で「恐れずマリアを受け入れよ」との言葉に励まされました。パウロは、コリントの町で反対者たちの妨害を受けていた時、幻の中で「恐れるな、語り続けよ、この町にはわたしの民が大勢いる」と言葉を聴き、その地に留まり続けました。聖書の語る夢、幻とはそのように、今この時を受け入れていく力をもたらすものです。
「自分の人生、これからどうなるのか」という将来への不安を抱く自分。隣人や社会の現実に対し、「今はやめておいた方が良いのでは」「まだ用意出来ていない」と色々な理由を立ててためらう自分。「自分の人生とは何だったのだろうか」と空しく後ろを振り返る自分。恐れ、悩みを抱える時、希望を抱けない時、主は聖霊によってご自身が共におられること、なお失望せず歩み出す力を備え、立ち上がらせてくださいます。聖霊の働きは私たちが人生を上手く乗りこなしていくための力ではありません。どのような歩みにも主が伴い、主がその愛をもって導かれる道であることを気付かせ、信じさせ、立ち上がらせ、イエス・キリストへと立ち返らせ、そして、このわたしに「すべてが主の御手のうちにあった」と告白させる力です。

■キリストの体なる教会
わたしたちは、聖霊において、イエス・キリストが今日も活きて働いていることを証しする一人ひとりです。復活した主イエスは天に挙げられ、その肉体をこの地上に見つけることはできません。しかし、そこで、初期のキリスト者たちは言ったのです。「私たちはキリストの体である」と。キリストは聖霊において、今日も明日も、私たち自身を用いてご自身を現されるのです。キリストの体なる教会として、集められ、遣わされるわたしたちです。
ペトロや弟子たちが聖霊によって立ち上がり、語り始めた、宣教を始めた。このことは、他者と出会っていったということ。関係が広がっていったということです。聖霊は、私たちに語るべき新しい言葉を与え、他者との出会いを与えます。私たちもここから遣わされて行きます。そこで、私たちが語るべき言葉、聖霊が語らせる言葉とは何でしょうか。隣人への呪いや陰湿な言葉ではなく、愛を伴った言葉を、後悔とつぶやきではなく、神への信頼と感謝の言葉を、大言壮語や人を軽んじる言葉ではなく、謙り、他者を敬う言葉を、そして、単なる流行廃りの言葉のことではなくて、消して古くなることのない福音と祝福を告げることを願い求めつつ、遣わされていきましょう。

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