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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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◆神を必要としない時代
主イエスの受けられた苦難を覚える受難節となりました。それは主イエスを苦しませ悲しませ十字架へと至らしめたこの世の罪を想う期節です。2000年前の過去の罪ではありません。神を見失い、それゆえどこまでも神の御心に背く現実は、主イエスの十字架以降、今日この私たちに至るまで相変わらず繰り返されている現実であり、あらゆる科学の発展に伴う人間社会の中で一層深刻になっている現実です。
昨今、教会に人が集まらないのはなぜでしょう。教会の社会に対するアプローチが足りないから?語るべきみ言葉が説き証されていないから?それも教会自身の姿勢として理由の一つに挙げられることでしょう。しかし、それ以前の遥かに大きな問題として、この世界・社会は、もはや神を必要とはしていない、神を前提とはしていないという現実があるのではないでしょうか。科学がこれほどまで発達すれば、これだけ不条理な出来事が世に続けば、神というものを拠り所として生きることが無意味で愚かなこと、あるいは憎むべきこととさえ思えてくるかもしれません。教会がどうあがこうがびくともしない現実があります。

◆試みの中に立つ
私たちは世にある以上、常に試みの中に立っています。主イエスが荒れ野で40日間に亘って悪魔の試みを受けたという物語は、「非現実的」な話しではなく、私たちにとって極めて身近で現実的なことです。私たちもまた「神の子ならば」(「自分は神に愛された子であるという信仰があるならば」と執拗に試みられています。「お前に神の愛、神の導きを信じる信仰があるならば、その信仰の力を見せてみよ」というのです。あるいは、「国と力と栄とを限りなく己のものにしたければ、このわたしを拝め」というのです。これはもはや神の子としての信仰を捨てよということに等しい。更に「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」と、神の愛、神の導きが本当かどうか試すよう唆すのです。そして、なんの証拠もないそのような信仰など捨てて、神への礼拝などやめて、ただ、この世で、自己満足、自己保身、自己実現のために生きたら良いではないかと言うのです。
「主の祈り」の中で、私たちは「試みにあわせず、悪より救いだしたまえ」といつも祈っていますが、実際は、私たちは日々試みに晒され、そこで揺さぶられているのです。しかし、だからこそ、そこで自己満足や自己保身や自己実現のためだけに生きようとさせる試みを退けるものとならせてください、という意味において「試みにあわせず」と祈るのです。

◆神の決意、神の必然としてのインマヌエル
「神の子ならば」、「神の子として愛されているという信仰があるならば」、そのような悪魔的な試みがあるだけではありません。実に、主イエスもまた、私たちに問い掛けておられます。荒れ狂うガリラヤ湖で恐れ戸惑った弟子たちに言われたように、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と。先々週の説教では、あえて「信仰」の二文字を省いて読んでみたのです。すると、「あなたがたはどこにあるのか」「あなたはどこにいるのか」。ここに主イエスの言葉の本質があると思うのです。主イエスは弟子たちの、そして私たちの信仰の無さ、脆さを叱責し、嘆いているのではありません。「あなたはどこにいるのか」「あなたの存在の根拠はどこにあるのか」と問いながら、目の前でご自身を示しておられるのです。「インマヌエル(神は我らと共におられる)」、これは私たち人間の抱く願望ではなく、神様の決意です。わたしたちが、この時代が神を必要とするとか必要としないとか、それによって存在したり、しなかったりするような人間の都合に利用される神ではありません。私たちは、いつどこにあろうと、ただこの神の決意、愛の決断の中にあるのです。

◆教会の証しが問われている
イエス・キリストの十字架の出来事、この世から神を追放し、人間が世界の主人公として君臨した出来事、それはまさに今この時の世の姿を映し出しているように思います。もはや神を必要としない世界、神など不都合な時代、ただ自分の力を信じ、自分を求め、自分のためだけに生きる世界。しかし、そうでありながら、人が互いに孤立した社会になっているように思えてなりません。その社会の中で、教会は何を証しすることができるでしょうか。教会は、わたしたち人間が神に愛され造られたこと、人は一人で生きるのではなく共に生きるものとして創られているということを証ししていく群れです。教会では「交わり」という言葉が頻繁に使われますが、それは単なる交流というのではなく、少し硬い表現をすれば「共に生きようとする決意」なのでしょう。この時こそ、共に神の子としての喜びを分かちあって生きる「交わり」をもって教会というものの世に対する一つの証しとしたいと願います。いや、教会こそその姿を証し出来ているのか、この世から試され、問われているのではないでしょうか。

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