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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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1. 憧れの人物を賞賛の余り偶像化する人間の現実は、私たちの経験の中にも少なからず思い当たるのではないだろうか。アイドルへの過剰な熱狂から独裁者を崇める愚行まで、それらは世代を越えて現在にまで続く人間の現実だ。その現実はキリスト教徒自身に無縁ではない。マルコの物語でも偶像化に誘われる人間の弱さを私たち自身の可能性として発見する思いがする。

2. マルコ4章35〜41節は、元々はイエスの奇跡的な力を語るガリラヤの民間伝承と思われる。しかし、この伝承を収録する際、マルコの関心は奇跡行為よりもイエスが発した言葉にあったようだ。それは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(4:40)という言葉だ。ただこの言葉を注目するとき、新共同訳の「まだ信じないのか」という言い回しの「信」の意味は今一つ不明瞭。この言葉の原語(ピスティン)には二つの意味があり、「信仰を持つ」及び「信頼を寄せる」という意味だ。マルコにおけるイエスの言葉は一貫して後者の「信頼を寄せる」という意味の用法が妥当する。40節のイエスの言葉も「まだ信頼しないのか」と理解できる。

3. この点が明瞭になるとイエスの問いの意味も自ずと明らかだ。イエスは弟子たちの信頼を問うた。さらに正確に言えば、弟子たちの神に対する信頼を問うた。突風に揺れる船の危機的状況下、イエスの振舞いは、言葉以上に生きた模範となって弟子たちの神に対する信頼を問いかけた。弟子たちは、イエスの姿によって神に対する信頼を具体的に示されていると言ってもいい。そうであれば、「黙れ。静まれ」の言葉も、イエスの揺るぎない神への信頼を示して、超人的権威を証明する意図ではないだろう。こうして「まだ信頼しないのか」というイエスの言葉から、私たちへのメッセージが聴こえてくる。キリスト者はイエスに倣い危機的状況でこそ神への信頼を生きよ!

4. マルコのメッセージがイエスに倣った神への信頼を求める。表現を変えて、キリスト者は、イエスの眼差しに倣って同じ方向に眼を向けるよう促されていると言える。キリスト者はイエスの志を受け継ぎ、イエスの背中を追って自らも歩もうと試みる者だからだ。そこに私たちはイエスへの服従を学ばねばならない。というのも現代のキリスト者と教会が抱える問題は、しばしばイエス・キリストに対する服従の意味の混乱として立ち現われてくるからだ。

5. 皆さんは「主の祈り」を祈る時、或る困難を感じないだろうか。「主の祈り」こそ、イエスが担おうとした神の国の現実としての人間の解放の課題を示す。しかしその祈りの実現が如何に困難であるかを感じることがあると思う。「主の祈り」を受け継ぎながら、キリスト者はその実現の困難さに悪戦苦闘している。それでも平和を求めてその歩みを止めないのはなぜだろう。私たちは、主イエスと共に志を同じくして彼の背中を追って自らも歩もうと試みる者であり、そのための教会だと自覚しているからだ。しかし教会はイエスに倣うと言いながら、彼の志を保って歩み続けることから目をそらしたくなる誘惑に、しばしば迷ってきたのも事実だ。

6. この誘惑は「イエスへの服従を宗教に変えてしまう誘惑」と表現してもいい。宗教への誘惑は一見麗しい敬虔さを装ってキリスト者を誘う。マルコの物語の並行記事がマタイ、ルカにある。その両者ともに、物語の結末は危機的状況での弟子たちの「信仰」の薄さを戒める。ただし、マタイ、ルカのいう信仰とは「神への信頼」よりも、「イエス・キリストへの信仰」を強めよとの意味に傾いている。そこでは、困難に直面してもイエスと共に神への信頼を貫くというメッセージはもはや後退している。神への信頼に替えてイエスをキリストと仰いで信仰することこそ重要だという教義信仰への傾斜を予感する。イエス・キリストと共に歩む営みから、もっぱらイエス・キリストを崇拝する宗教化の道に傾いていく。イエスを麗しい礼拝や教義の対象として見つめることで、自らを救済のドラマを見聞する観客してしまう。そうすることでイエスへの服従が本来意味した生き方を無化していく危うさを辿っているともいえる。それは結局、キリスト者が本来の生き方を失っていく道ではないか。この意味での宗教化への誘惑を私たちは自覚したい。

7. イエスに従うと言うとき、私には忘れがたい経験がある。かつて相馬信夫というカトリック司教がいた。名古屋教区司教として働き、激務の合間にホームレスの人々の支援に自ら加わるという慈悲深く謙遜な方だった。その相馬司教が、1990年前後の頃、上智大学でのシンポジウムで、韓国・朝鮮人に対する民族差別の言葉を用いて、そんな程度の理解力の人間にとどまってはならないと発言をした。相馬司教自身はその言葉の意味を知らなかった。しかし、それに気づいた人が会場にいて、一瞬どよめきが走った。私もその会に参加していたので、思わず手を挙げて司会者に発言の許可を求めた。そして、相馬司教に「この会場には韓国人の私の友人もいます。いまの発言から侮辱となる差別用語を認識したうえで撤回をお願いします」と要望した。すかさず数名の方が立ち上がり、私に対して「あなたは誰なの。相馬司教様ともあろう方に対してあまりに無礼です」と反発した。上智大学で、並み居るカトリックの人々の間で、尊敬を集める司教様に対して、教団の無名の若い牧師が異議を唱えた。司会者も沈黙し場内は凍りついた。私は座ることもできず、その場を逃げ出したい気分だった。

8. その時、私が個人的に師事していた上智大学教授の山田経三神父が、岩波の『広辞苑』を手に現れ、該当用語の解説を人々の前で読み上げた。そして、相馬司教様の用いた言葉は、たしかに韓国・朝鮮人差別の意味を含んで用いられていますと告げた。相馬司教は静かにうなずき、その場でご自身の発言は不適切だったと認めて、差別意識からの解放は私の生涯の宿題の一つですと言って、会場の韓国人に謝罪して発言を撤回した。私は、この一件で相馬司教はイエスに従う人として真に見習うべき先達と改めて尊敬の念を抱いた。この記録は後に刊行された上智大学社会正義研究所の本の中にありのまま収録された。社会正義研究所には然るべき見識が生きていた。

9. この時の体験は、私を初心に立ち返らせた。私は、イエスに出会い彼の背中を追って自らも歩もうと試みる者なのだということを、あらためてはっきりと示された。キリスト教という宗教への帰属意識の絶対化ではなく、牧師や教師や聖職者という権威者意識の絶対化でもない。それらは宗教の誘惑ともなる。イエスに倣いただ神にのみ信頼し、人としての良心を見失うことがないように祈ろう。ただイエスの呼びかけに応えて、イエスに従って、彼の祈りを私の祈りとして生きたいと願うことが大切だ。私たちは、その単純で困難で、しかし、真に自由な、イエスに倣う服従によって歩みたい。イエスと共に歩めばよい。危機的世界の中で人々のますます切なる希望として、生命のためのイエスの闘いは続いている。イエスと共に歩み続ければよい。Ω

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