札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■ひそかに
「たとえ物質的には裕福でなかったとしても、仲睦まじく愛と信頼に基づいた良き家庭を築いていこう」。そんな淡い幸福感は打ち砕かれました。マリアの妊娠という事実は、ヨセフに悪夢のようにのしかかりました。ヨセフは「正しい人」であった。それは彼が律法に忠実に生きていた人間であったということです。律法の掟に照らせば、マリアは姦通の罪に問われ、そうなれば石打ちの刑は免れません。それが律法的な正しさでした。しかし、ヨセフは掟を超えてマリアの命を守ること決断しました。けれど、その決断にも限度がありました。ヨセフにはどうしてもマリアの妊娠という事実を受容し、胎内に宿る命を我が子と認知することはできなかったのです。だから、「ひそかに縁を切る」ということを考えたのです。「そもそも、はじめから自分たちは出会ってなどいなかったのだ、すべて夢幻にすぎなかったのだ、なにも関わりなどなかったのだ」と。秘かにマリアを去らせる、それがマリアに対する愛情と不信の狭間で限界まで悩み抜いた末のヨセフなりの決心でした。
■恐れず、受け容れよ
ところが、主の天使が夢でヨセフに告げたのです。「恐れず、マリアを迎え入れよ」。果たして、一度きりの夢だったのか、それとも何度もその夢にヨセフはうなされたのでしょうか。「恐れず、マリアを受け容れよ。恐れず、この現実をそのまま受容せよ」と。それできればどんなに楽でしょうか。しかし、できないのです。このままマリアが出産し、自分は血のつながりのないその赤子の父としての役目を、その責任を担えるだろうか。妻子のために命を懸けて一生大切にできるのか。自分という人間の可能性を測れば、そのような保証も自信もない。いつか憎しみが爆発してしまうかもしれない、逃げ出してしまうかもしれない。そんな終わりの見えない不安にも関わらず、天使は他人事のように、無責任にも「あなたのその恐れ、自分の可能性を捨てよ」というのです。自分の気持ちは何も考慮されず、ただ、マリアを受け入れることを要求される。一体、マリアを受け入れるために必要だったヨセフの苦悩と葛藤とはどれほどのものであったかを想います。それらを経てこその主イエスの誕生という出来事であったことを見過ごすことはできないと思います。
■受け容れたのは神
この箇所でマリアもヨセフも一言も発していません。いわば神が一方的に物事を進めているのです。彼らの台詞がないからこそ、そこにあったはずの彼らの夫・妻として、あるいは父・母としての苦悩が様々な想像されます。そして、そのように想像される彼らの苦悩とは、実に、この罪の世をそれでも愛し、そのままに受け入れられた神ご自身の心を映し出しているものであると読むことができるのではないでしょうか。「恐れず、受け入れよ」。そこに生じたヨセフの呻きとさえいえる苦悩を想像しながら、実に神こそが、この世界を「秘かに離縁」せず、そのまま受け容れられたのだという決断を思います。それは決して易々と行われた出来事ではないということ、神がこの世を愛す、赦す、この子らの父として生きる、その痛みとそれゆえの揺るぎない決意が、イエスの誕生に至る出来事に表されています。
■インマヌエル―赦し―
天使はヨセフに言いました。「その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。罪からの救い、それは、私たち人間に罪が無くなった、神に対し背きも過ちも何一つ犯さなくなったという人間の側の話ではなく、神がこの私たちをありのままに受け容れて下さったということです。
イエスは、罪人と食事をしました。また、ご自分には罪を赦す権威があると言われ、人々に罪の赦しを告げました(9章)。ある時、「罪は何回赦すべきでしょうか、7回まででしょうか」と尋ねたペトロには「7の70倍まで赦せ」と言われました(18章)。十字架に架けられる直前、夕食の席で、主イエスは言われました。「これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(26章)。そして、磔となった十字架の上には罪状書きが掲げられたのでした(27章)。罪なき方が罪人となられ、この世を罪から救うために自らを献げられた。マタイによる福音書は、イエスという方をそのように見つめています。そのイエスの生涯の初めに天使は言ったのです。「その名はインマヌエルと呼ばれる(神は我々と共におられる)」と。それは、ただ「一緒にいてくれる」ということではありません。神が共にいてくださるということは、なによりそこに「赦しがある」ということです。このわたし、この世界をそのままに受容してくださった揺るがぬ決断があるということです。
神が、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、このわたしのすべてを内に受け止めてくださった。その恵みを私たちも主を内に宿しながら、主が与えてくださる一日一日を、恐れず、受け止めて生きるものでありたいと願います。
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