札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
>札幌北光教会/トップ >牧師紹介・説教 >悔い改めの洗礼
洗礼者ヨハネは、公に現れるイエスに先立って、イエスの到来を告げ知らせました。しかも、このヨハネは人々に耳障りの良い優しいことを言えばいいのに、そうではなくて、その教えは厳しいものでした。
「我々はアブラハムの子孫」だから、神から祝福されるにふさわしく、それが当たり前だ、我々は正しいと思っていた人たちに対する糾弾の言葉でした。現実の社会にある罪、人間の罪の現実を明らかにし、差し迫った悔い改めを迫る言葉そのものでした。旧約聖書の預言者たちが語った言葉が今一度、ここに蘇った思いだったのでしょうか。この言葉を聞いた人々は、嫌悪するどころかむしろ目を覚まし、悔い改め、主の前に姿勢を整えねばならないとヨハネの言葉を聞くために、ユダヤ全土からやってきたのです。そして、ヨルダン川へ来て、罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けたのでした。それは、神の救いの約束の実現の前に、我々がまず悔い改める必要が絶対にあるということを私たちにも示しています。
私は毎週、幼稚園の先生方と聖書を学んでいますが、「あなたの中にも罪があり、そのために主イエスは十字架の贖いを与えてくださった」と罪ということを伝えることを躊躇することがあります。それはなぜかというと、その思いの中に、「私」という自己中心的な思いが隠れているからです。罪があると言って、厳しい教えだと思われたくない、でも、結局それは、キリスト教がどう思われるか、ではなく、「私」がどう思われるか、ということにすり替わっています。
悔い改めとは、ギリシャ語で「メタノイア」、本来は視点を変えるという意味を持っています。まさに、「私」という自己中心的な人間的な思いの中にある限り、神の愛をまっすぐに受け取れず、また伝えることができないのです。
悔い改めを迫る厳しい教えのヨハネと、神の愛を語る主イエスキリストと対照的なように見えますが、ヨハネの登場が必要であったということは、ヨハネの言葉を抜きにしては決して主イエスの示された神の愛と神の憐みを本当に理解することはできないのです。なぜなら、主イエスの示された神の愛は、ただ単に優しいということだけでなく、そこには人間の罪の現実に対する神の憤りと、限りない忍耐と、赦しが主イエスの十字架と復活を通してはっきりと私たちに示されているからです。
さて、洗礼者ヨハネの言葉を聞いた人々は、「では、私たちはどうしたらよいか」と尋ねました。世界を見渡すと、心が痛む、人間の罪の現実を目の当たりにします。個人的にも神様の前に正しいと思っていた自分、何の問題もないと思っていたが、実はそうではなかった。私たちは自分の不甲斐なさや自分の力ではどうにもならないことに気づいた入り、頼りにしていたものを失うとき、「神である方の前にいったい何者であるのか」「私の生きる道はいったいどこにあるのか」と人生の中でこの問いに立たされることがあるのではないでしょうか。
この問いに対してヨハネは、「洗礼」ということを語ります。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言うのです。洗礼という言葉は、ギリシャ語では、「バプティゾー」で、本来は「水に沈める、浸すこと」を意味する言葉です。ということは、洗礼を受けるとは、「聖霊に浸す」ということです。火は、聖霊の力強さの象徴です。
聖霊とは何でしょうか。聖霊の根本的な働きは、私たちを十字架の愛と赦しのもとに連れ戻し、神と人とを結び合わせることです。そして、これからの人生を自分の思い、自分の力ではなく、神の愛の中で、聖霊によって押しだされ、導かれて生きていくということ、それが洗礼です。私がどんなに愛され、どんな赦されているか、どんな時にも私の人生には、私たちのために自分を捨て、低くなって仕え、私たちの道そのものとなってくださったキリストを歩んでいます。聖霊とは、そのことを確かめさせてくれる力でもあります。
そのことを知るとき、私たちは自分の人生がたとえ谷や山があるようなものであっても、曲がった道、でこぼこの道でも、それが神様によって平らかにされ、神の愛と赦しのある平安な道であることを信じて、感謝して生きることができるのです。
⇒ 前のページに戻る