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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■神様のものである自分を
「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。ファリサイ派の人々や律法学者が主イエスの行動を問い質します。ファリサイ派の人々にとって徴税人は罪人と同類だったのです。徴税されたお金の一部は、ローマ帝国による支配を持続させるために用いられるのであり、それで生計を立てている徴税人は人々から白眼視されていました。ところが、ナザレのイエスは、この徴税人と親しく食事を共にしているというのですから、ファリサイ派の人々の心情が穏やかであるはずがありません。
ある時、ファリサイ派が、「ローマ皇帝への納税は、律法に適っていることか否か」と主イエスに質問しました(マルコ12章)。これは是でも非でもいずれにせよイエスを陥れることができるような巧妙な罠でした。しかし、主イエスは彼らの問いの次元を超えるようにして、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と応えました。
皇帝の肖像が刻まれたお金は皇帝のものであると認めつつ、しかし、神のものは神に返しなさいと言われます。「神のもの」とは、つまり、あなた自身ということです。神のものである自分自身を、神にお返しせよというのです。それはファリサイ派の人々の内にあった自分本位で、神の栄光をかすめとるような生き方への戒めです。「神のものは神に返しなさい」、この教えは、主イエスのすべての教えと業に通低しています。そして、ここに登場するひとりの徴税人アルファイの子レビは、「神のものは神にお返しする」という命の転換をしたと言えるのです。

■存在の癒し
収税所に座っていた彼は、仕事の最中にも関わらず、「立ち上がってイエスに従った」(14節)のでした。直前の箇所には、中風の病ゆえに罪人の落胤を押され、罪の支配に置かれていた者が主イエスによって起こされ、立ちあがり床を担いで帰って行きました。同様に、徴税人として罪人と見なされていたレビが「立ちあがった」のです。こうしてまた罪の呪いの中に押し込まれて生きていたひとりの命に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との神の祝福が届けられ、解放をもたらしたのです。徴税人レビは、自分が神によって見出され、生かされている、その福音によって立ち上がって生きるものとなったのです。「自分も確かに神の子とされている」と、自らのアイデンティティを神にこそ見出した、存在そのものの癒しの出来事です。
ルカによる福音書5章の並行箇所では、彼は「なにもかも捨てて(・・・・・・・・)立ちあがりイエスに従った」と強調されています。彼がなにもかも捨ててイエスに従ったのは、彼が神のものである自分自身を神にお返しして、すなわち自らを神の愛に明け渡して生きるものとなったということです。「神のものは神に」、そこにまことの喜びと希望の道は開かれていくのです。

■教会の姿
レビは主イエスを自宅に招き、食事を共にしました。その場にはレビと同様、既に主イエスに従っていた大勢の徴税人や罪人が同席しました。これはレビが大勢の人々を自宅に招きもてなしたということよりも、レビ自身が、神の国の交わりに加えられたこと、この交わりが彼のいのちの居場所となったということを物語っています。暗い雰囲気の食事ではなく、天の祝福の声が響いている祝宴です。神の国の福音の中を生きていこうとする人々の集い、罪の支配から解放され、自らを神のものとして委ね献げていく人々の集いです。「教会」とは、まさしくそのような場所、交わりです。

■罪人を招くためにわたしは来た
主イエスは言われます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。「医者を必要とするのは病人である」という論理ならば、主イエスは続けてこういうべきです。「私を必要とするのは、正しい人ではなく、罪人である」と。でも、主イエスは「罪人の方が必要としたからわたしは来た」とは言われず、「罪人を招くためにわたしは来た」というのです。イエスの方から罪人たちを探し招くために来たというのです。主イエスと徴税人レビとの出会いは、一見通りがかりの気まぐれの出来事のように思えます。しかし、そこに神様の必然というものが働いているのです。神様の決断がここに働き、この徴税人に出会っておられるのです。

■主の招く声が聞こえてくる
わたしたちについても全く同じです。礼拝の初めに「招きの詞」が告げられます。私の方から求めたのではなく、キリストがわたしを求め招かれ出会われるのだということを意味しています。そして、招きを聞いたとき、もう既にわたしは主に見出されていると信じることができるのです。「わたしに従いなさい」。こうして主が招いて下さるのでなければ、わたしたちはこれに応えて従うということもできません。
今日、主は皆さん一人ひとりの生活の現場に立ち、「従いなさい」と新しい命へと招かれます。この招きにこそ、神のものである自分自身を神にお返しして生きていく自由の始まりがあります。決意を新たに立ち上がるいまといたしましょう。

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