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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■魚とパン
復活の主イエスは、湖の岸辺で焼き魚とパンの朝食を用意して弟子たちをもてなしました。2匹の魚と5つのパンのことを彷彿とさせるメニューです。「こんなわずかなものが何の役に立つだろうか」との戸惑いに反し、すべての人が満たされ、なおあまったパン屑が12の籠に溢れました。あの時のことを、主イエスの十字架の死と復活を経たいま振り返ると、弟子たちは、主イエスが十字架で自らを命のパンとして裂かれたのだということ、そして、その恵みは多くの人の命を満たし、なお溢れるほどであるということを知ったのではないでしょうか。

■再三の問い「わたしを愛しているか」
主イエスはペトロに尋ねました。「わたしを愛しているか」。この唐突な問いに対し、ペトロは再び恥じ入り、湖に飛び込んだでしょうか。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」。それがペトロの一貫した返答でした。その答え以外に返す言葉がないのです。「イエスなど知らない」と3度も重ねて否認した自分です。いまさら最もらしく「あなたを信じます、愛します、従います」と言ったところで、その言葉がいかに揺るぎやすく薄っぺらなものであるか。ペトロにとっては、そうした自分の愛の脆さというものをも含めて、主はすべてご存知であるということこそが慰めであり、希望だったのです。

■わたしに従いなさい
「わたしの羊を飼いなさい」。主イエスはこの言葉も3度繰り返して、ペトロにキリストの証し人としての使命を与えました。ペトロの愛がどんなに脆いか、それゆえに彼がこの先直面する苦悩やつまずきも、すべてご存知の方として。それは、「予めお見通し」ということではなく、そんなペトロの苦悩やつまずきに満ちた歩みを共にされる方としてご存知であるということです。
十字架に掛けられる前のこと、主イエスは弟子たちの足を洗い、そして言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。そのように弟子たちを励ました方は、十字架に死なれ、過去に押しやられたのではなく復活されました。移り変わる無常の世に、永遠の愛をもって打ち勝つ愛がペトロに伴い、「勇気を出しなさい」「わたしに従いなさい」と告げるのです。
「わたしに従いなさい」。ガリラヤ湖で主イエスに初めて出会った時に告げられた言葉でした。あの時から今までも、そしてここからも、この言葉この眼差しが自分にはあるのだとペトロは知りました。主に洗って頂いたこの足で、主に結び直されて歩んでいく、ペトロの新たな始まり、いや本当の始まりを告げる言葉でした。
今、巷は新元号のことで騒いでいます。「流行」ということを思わされます。そのとめどない流れの中で、何を拠り所として生きるのかが問われています。「勇気を出しなさい。わたしに従いなさい」と、それこそ再三に亘って告げられています。

■両手を伸ばして、行きたくないところへ 〜主の十字架〜
18節「はっきり言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
若さから老いへ、生から死へ、決して逆らえないこの移り変わりに、儚さを思わされます。しかし、この主の言葉の奥に、次のみ言葉を聴く思いが致します。「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ書46章4節)。すべての日々が、主に知られ、主に担われ、背負われ、導かれている、その平和を忘れてはなりません。
「あなたはやがて、両手を伸ばして、行きたくないところへ連れて行かれる」、そうペトロに語られる主イエスご自身が、かつてこのガリラヤからエルサレムへと、そしてゴルゴタの丘の上へと進まれたのでした。「御心ならばこの杯を取りのけて下さい」と祈りながらも、両手を伸ばして十字架に死なれたのでした。しかし、その死と復活が、死をも打ち破る愛という栄光を証ししたのでした。
主イエスに従って生きていく道は、夢と希望が溢れるバラ色の道ではなく、自分の思う通りには決して行かないこと、自分の望まないような出来事が度々でしょう。でも、だからこそ、そこで「両手を伸ばしていなさい」と自分を明け渡すよう主は招かれます。その時、わたしたちは、すべてのことがわたしではなく、わたしを知り、わたしを背負う主の御業であったのだということを味わい見ることになるのです。

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