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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■わたしは知らない
息を潜め、一定の距離を保ちながら、捕えられた主イエスの後を秘かについていくペトロ。。大祭司の屋敷の中庭にまで忍び込んだ彼には、事態を一変させる秘策があったわけではなく、ただ己の不甲斐なさを痛感しながらついて来たのです。
それは寒い夜、焚火が照らすペトロの横顔を凝視する一人の女中が問い掛けました。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」。薄ら笑いを浮かべながらも内心必死でしらを切るペトロ。「なんのことを言っているか見当もつかない」。「確かにお前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」ペトロの訛りから、この男が弟子の一人だと確信した人々に対し、彼は呪いの言葉さえ口にしながら、主イエスを徹底的に否定しました。「あなたがたの言っているそんな人は知らない」。
「主よ、たとえ一緒に死なねばならばくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(14章31節)。たった数時間前に豪語していたあのペトロの威勢はどこへやら。所詮は、主イエスのための自分ではなく、自分のための主イエスでしかなかった、ということを露呈しました。
焚火で浮かび上がるペトロの顔に自分自身を重ね合わせてきた人が、どれだけ大勢いたことだろうかと思います。「主に従う者でありたい」「御心のままに生きていく者でありたい」との願いとは裏腹の生き方を繰り返す自分の脆さ、頑なさに直面せざるを得ません。最も肝心な場面で、信仰の根幹が問われるような場面で、「私は知らない」「分からない」「関係がない」という言い訳を使って、信仰の良心を眠らせ、問題から目を背けてしまう、そのようにして神と隣人を、そして自分自身を欺きながら生きるわたしの体質、教会の体質が重なってくるのです。
わたしたちはどのレベルで、「主イエスを知っている」と言えるでしょうか。自分の命、生活に直接的な圧力をもって関わってくる時にも、そう貫くことができるでしょうか。ある時には主イエスを知っているように、またある時には知らないかのように、どっちつかずの従い方、それこそ距離を保ちながら後を追ったペトロのようなわたしであるのではないでしょうか。

■鶏鳴の夜〜なお愛されている
鶏が鳴き声を聴いたペトロは、主イエスの言葉を思い出して激しく泣き崩れました。
しかし、鶏の鳴き声が朝の訪れを、新たな始まりを告げるしるしであるならば、それは、寒い夜の闇の中でくずおれるペトロを断罪し見捨てる鳴き声ではなく、むしろここから新たに立ちあがっていく、赦しと愛を告げる鳴き声であったと言えるでしょう。
ルカによる福音書では、更に主イエスはペトロにこう言っていました。「わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った。立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22章32節)。
主イエスは、ペトロの否認と挫折をご存知の上で、そう告げておられました。「それでも信仰がなくならないよう祈った(祈っている)。立ち直る時が来る、その時あなたが兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペトロの死と復活の物語、救いの物語です。なお赦されている、なお愛されている、主がこのような自分を共に生きて下さっている、その救いがペトロを、やがて立ち上がらせていったのです。
札幌北光教会創立記念を終えて123年目が始まっています。皆でキリストに結ばれて二人三脚で歩めば、この数字のようにテンポよく軽やかにという訳にはいかないでしょう。惨めに思うこと、愚かに思うこと、心貧しくすること、痛むことが必ずあります。そのようにして歩んできた122年だったのです。しかし、わたしたちは主の祈りの中で生かされています。キリスト者であるということの強みとは、「わたしはイエスを知っている」という所に立って生きることではなく、「イエスにどこまでも知られている、なお愛され、祈られている」という事実に生きることです。主に知られ、主に祈られ、そして全く主のものとされているこの事実にこそ、自分の居場所があるということです。

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