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説教題は、俵万智さんの歌集、「サラダ記念日」にちなみました。たった31文字の中に表される二人の関係が、料理を作る方も作ってもらった方も、暖かく思いやりに満ちている関係が、香油を注ぐ女性と主イエスとの間にも、暖かく思いやりに満ちた関係がここにしっかりと描かれていると思いました。しかし、この暖かな関係は、周りにいた人たちには理解されず、批判の的となります。

エルサレムにほど近い町、べタニアで、重い皮膚病の人シモンの家に主イエスが滞在されたときです。そこに、名もない一人の女性が、純粋で、非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきたのです。この香油は300デナリ以上に売ることができたとありますから、当時の労働者の1年分の賃金に相当すると言われているほどに高価なものでした。さらに、このナルドの香油は、結婚に備えて月日をかけて両親が娘のために用意するものでもあったようです。値段が高価なだけでなく、結婚に備えたものであったということは、どれほど女性にとって大切なものであったかということが伺えます。香油がなくても結婚できたのかどうかはわかりませんが、高価な香油を持っての結婚と、そうではない結婚、また、この地域に住む女性であるがゆえの結婚、また、この当時、結婚することが大前提で、未婚の女性が生きていくのがどれほど大変であったかなど、様々なことを思いめぐらすと、彼女のこの香油を主イエスに注いだという行為が、並大抵のものではなかったことでしょう。しかし、周りにいた人たちの反応は、この女性の行為に対して、とてもちぐはぐなものとして映ります。その彼女の主イエスに対する想いの深さにではなく、高価な香油に関心が向いています。周りには、男性も女性もいたことでしょう。同じように香油を持つ未婚の女性もいたかもしれません。しかし、主イエス以外、誰一人としてこの女性の想いを汲むことをせず、批判するにとどまったのです。
それはなぜか。この香油を注いだ彼女の中に、自分にはない主イエスに対する純粋な愛と献身を見たからではないでしょうか。

人間とはまことに弱く、罪深い存在であることを、改めて思わされます。

香油を注いだ彼女の行為に心を寄せて、主イエスに対する愛を自分も、できる形で注ごうとするのではなく、自分にはできない愛を目の当たりにし、嫉妬し、自分にはできないということを正当化するために彼女に批判を向けた人々。人々の言ったことは、まさしく正論でした。この正論が、時に私たち人間の目を曇らせることがあるのです。そしてこのような正論を、私たちもしばしば語るのではないでしょうか。いかにも正しいことを語りならが、あるいは誰かのために配慮しているようなことを言いながら、実は相手のしていることにケチをつけ、困らせているだけ、ということが、私たちにもよくあるのではないでしょうか。それは、自分にはできないことをした彼女に対する「嫉妬心」からです。

主イエスは、この批判に対して、「そんな批判は間違っている。」とはおっしゃいませんでした。そうではなくて「なぜこの人を困らせるのか」とおっしゃったのです。主イエスは、「この人のようになりなさい」とはおっしゃいませんでした。そうではなくて、この人を困らせないでほしい、この人が心を込めて精一杯してくれたもてなしを、献身を、愛を、他の正論で曇らせず、純粋に共に喜んでほしい、それが主イエスの思いなのではないでしょうか。そして、名もない女性が油を注いだということを、主イエスは、ただ単に注いでくれた、というだけでなく、「埋葬の準備」をしてくれた、と十字架の死による罪の赦しの福音の記念として受け止め、彼女自身が思ってもみなかった大きな意味をそこに与えて下さったのではないでしょうか。

キリスト者は、常に難しい選択を迫られているのかもしれません。様々な正論がある中で、本当の愛とは何か、本当に優先すべきことは何なのか、何をなすべきなのか、を見分けて行っていかなくてはならないからです。そこに、人間には拭い去れない、誰もが持っている嫉妬や痛みや、様々なものが私たちの前に立ちはだかってきます。そこをどうやって見分けていくか、それにはやはり、主イエスの十字架による赦しによってしかないのだと思います。私たちがどれほど神から愛されているかということを知るときに、隣人を愛していくこと、喜び合うこと、共感しあうことが可能になってくるのです。 

最後に、この油を注いだ女性は、女性であったがゆえに、名前も残っていない、とされているところがあります。逆に、主イエスを裏切ったユダやペトロはしっかりと名前が残り、2000年たった今もなお、語り告げられている。これは、男性であるがゆえに名前が残ったと考えるならば、名誉なことでも不名誉なことでも名前が残る男性も、女性と同じように生きにくさがあったと言えるのではないでしょうか。男性であるがゆえに求められること、押し付けられてきたこともあるはずです。主イエスの生き方は、そんな生きにくさを抱えた人たちとも絶対的な肯定をもって、共感をもって生きた方でした。べタニアという貧しい町を訪ね、食事をし、人からの好意を、奉仕を心から喜んでくださり、裏切る弟子たちをも批判することなく、その人たちのために祈る方でした。私たちキリスト者は、この主イエスの愛によって生かされていることを覚え、主イエスに倣って歩みたいと思います。

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