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■「光の子として歩みなさい」
この呼びかけは、「愛によって歩む」ということに尽きます。神の愛という光に照らされて、あなたがたもまた、その愛を世に映し出す光として生きよということです。エフェソの信徒への手紙は、イエス・キリストに結ばれて生きる者たちを、新しい生き方へと促しています。かつての古い自分に旧態依然として留まらず、神がわたしたちのことをその存在を限りなく深く愛し、赦してくださったように、自分もまた愛によって歩むようにというのです。
いまやキリストに結ばれ、キリストと共に歩む者が、旧態依然としていることをこの手紙は良しとはしていません。古い自分、暗闇にあったかつての自分は、あのゴルゴタの十字架でキリストと共に徹底的に死んだのであり、しかしまた、復活のキリストの命に与って新たに起こされた者であり「あなたは以前のままでよい、何も変わらなくてよい」とは言いません。もちろん神は、「ありのまま」に愛し肯定していてくださるのです。しかし、「ありのままで愛されてある」ということは、「神の愛は決して覆らない」という意味であって、「わたしは何もする必要がない」ということではないのです。「あなたは何もしなくてよい、そのままでよい」そう呼びかけられることは、時に「あなたには何の期待もしていない」という響きにもなりえます。

■癒し、解放
福音書には、イエス・キリストに出会い、病を癒された人々の物語があります。それは単なる肉体的な回復という次元の話ではなく、神の愛に照らされ、起され、その意味での癒し、解放を語っているでしょう。それらは私たち自身に起きた出来事として迫ってきます。「光の子として歩みなさい」(愛によって歩みなさい)と求めているのも、それがイエスに出会い、イエスと共に生きる者の、まことの癒しと解放であるからです。
神は、暗闇に覆われ、罪に囚われていた人間、その意味で全く壊れ、崩れてしまっていた人間を、キリストの死と復活をもってご自身の手に取り戻されました。ただ取り戻しただけではなく、壊れたものを癒し、新たな息を吹き込んで回復させたのです。壊れたものをポイと捨てて、新しい別のものに取り換えるというのではなく、「お前の代わりなどいくらでもいる」というのではなく、神は絶対に見捨てず、あなたを愛する子として取り戻し、癒し回復し、そして用いようとされるのです。
復活のキリストはガリラヤに弟子たちを呼び集め、そこから彼らを世に遣わしました。弟子たちは聖霊の力を受けて、新たに歩み出しました。わたしたちは毎年イースターやペンテコステを喜び祝いますが、その喜びは、復活の主イエスに出会い、復活の主イエスと共に、愛によって一歩踏み出していこうとする決意の中に生じる喜びではないでしょうか。旧態依然と、躊躇や弁解をして足踏みし続けた自分が、いざキリストと共に墓の闇から起き上がって、外へと出ていくのです。初代のキリスト者たちは互いの信仰の合言葉をもっていました。「眠りについている者、起きよ、死者の中から立ち上がれ、そうすれば、キリストはあなたを照らされる」(14節)。これは今日のわたしたちの合言葉でもあります。
光の子として歩む、愛によって歩むと申しました。では、愛はどこに向かって歩むのか、それは常に「他者」に向かうのです。愛とは、他者(隣人)との関わりにあるのだということを示しています。神が、ただ超然とではなく、この世に幼子として生まれ、飼い葉おけのように貧しいこの世界を、いわばその存在で温めてくださった神であるように、私たちも「あなた」と呼ぶべき隣り人をそっと照らし、また照らされ、互いにひだまりのように温めあう光として自分をささげ、主に用いていただくことが求められています。そこにキリスト者の、教会の命があるからです。

■「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」(16節)
悪い時代、闇が深まる時代だからこそ、光を見つめられる時です。昼間は見えなかった何万光年と離れている星までもが夜になれば見えるように。戦争への道が現実味を帯びてしまっているこの時代、憎しみが生きる原動力となり、命を奪うことに使命を見出してしまっている時代です。実りを分かち合うでなく、不毛で虚無的な思いに満ちた時代です。その深い闇の中でこそ、神に愛され生かされている自分の今この時を無為にせず、神が一体どれほど痛み、どれほど耐え忍び、そして「わたしは共にいる」と一人一人を憐れみ、愛しておられるかを見つめたい。「平和」に特に思いを注いできたこの月の最後の週にあたり、もう一度、神の愛を思い、この愛を光・熱として歩みたいと願います。他者に向かって踏み出す歩みが、どんなに細く、地味で、非効率的で、無意味で愚かしいものと評されたとしても、そこに主の力は臨むのです。

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