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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■偶然と必然
人生とは偶然の産物でしょうか。ただ成り行きで、ラッキーかアンラッキーかの違いに過ぎず、すべては「死んだら終わり」というような、究極的には何の意味も価値もない現象でしょうか。もしそうならば、人はたとえ生きていても死んでいるに等しいと言わなければならないでしょう。果たしてそこに「命の尊厳」はあるでしょうか。人が「生きる」とは、自分という存在を無意味な偶然としてではなく、あるべき必然のものとして創り出し、導かれる神への信頼によって立つことです。わたしを導く神の必然の中で、人生の喜びも苦しみも受け止めていく、あるいはまたそれを神に委ねていく、それが「生きる」であり、信仰の生活です。神は、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、「死んだら終わり」という死に支配された考えから私たちを解放し、私たちが死をも超える神の愛に生かされ導かれる尊い存在であることを示されました。
私たちにとって礼拝を止めることは「危険」です。神への賛美、祈り、み言葉への傾聴なくしては、私たちは自分自身を失い、「偶然」の中を彷徨ってしまうのです。礼拝を通して、死をも支配する神の愛を知り生かされ、神の必然の中で導かれている自分であることを知るのです。ユダヤ人たちは、過越しの食事において、主の過越しと出エジプトの出来事を記憶しました。自分たちが意味のない偶然の世界に放り出され彷徨っているのではなく、神の導きの中で一歩また一歩と進んでいること、神が我らを守り愛し備えていてくださるということを噛み締めたのです。

■ユダへの愛
主イエスは弟子たちと共にする過越しの食事の席で、ユダの裏切りについて語りました。「12人のうちの1人で、私と一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去っていく。だが人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった」。
「生まれなかった方が、その者のために良かった」。この後イスカリオテのユダが自ら命を絶ったことを暗示する一言です。これは「お前が生まれてきたのは間違いだった」「お前は神様のミスで偶然存在してしまったのだ」と存在を全否定しているような言葉です。死の宣告に等しいこの言葉を私たちはどう受け止められるでしょうか。人は誰しも偶然の産物ではなく、神の愛によってあるべくしてある必然の存在です。「生まれなかった方が良かった」と言われる存在など決してないのです。ユダは「間違い」や「偶然」で存在してしまったのではないのです。私たちは、この書かれた言葉の奥に、むしろユダへのイエスの愛を聴きとることができるはずです。すなわち、主イエスは、裏切りの末に自ら死を選ぶに至ってしまったユダの自責、孤独、自暴自棄の思いに寄り添うようにして、「ユダよ、あなたはこんな絶望を味わうために生まれてきたのではない!」「わたしはあなたを見捨てはしない!」「わたしにとってあなたの存在は何にも代えがたく尊いのだ!」という愛をこそ告げ、彼を受け止めているのではないでしょうか。

■「取りなさい。これはわたしの体」
主イエスはユダにもそう告げたのです。「取りなさい。これはわたしの体」。ここにユダを見捨てず、ユダのためにもご自身を差し出し、献げていく主イエスの愛と赦しがあります。
この時、主イエスは、伝統的な過越しの食事の手順には全くないことを話されたのです。「これはわたしの体」「これは多くの人のために流されるわたしの血」。そのような台詞・手順は過越しの食事にはないのです。しかし、ここで主イエスこそは、御自分こそが十字架で「過越しの犠牲の小羊」となるのだということを示されたのでした。イエスこそ犠牲の小羊としてその血を流されたことによって、この世に下されるべき神の「第10の災い」(滅び)は、民を過越し、永く罪の奴隷とされていた民は解放され、救い出されたのです。本当なら私たちは神様によって、「お前たちなど生まれなかった方が良かったのだ」「お前を創ってしまったことは間違い、偶然だったのだ」と宣告され、滅ぼされても仕方のない者かもしれません。それほど人間は、神に背き、神を裏切ってしまっていたのです。ユダとは、このわたし、この世界に他ならないのです。しかし、神はその裁きを、イエス・キリストの十字架の犠牲をもって「過ぎ越され」ました。それは、このような私たちをも、神が「わたしはあなたを愛している」「わたしはあなたを決して見捨てない!」「わたしがあなたを導く」と告げて下さった出来事であるのです。
「神の国で新たに飲むその日まで」、主イエスは、その神の国で共に食事を囲むその日を望み見つつ、その食卓へと弟子たちをそして私たちを招いて下さいまます。「その日までわたしはあなたのことを決して見捨てない、あなたを導き続ける」と約束して下さいます。この愛が皆さんの人生に「必然」のものとして刻まれていることを知りましょう。

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