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■「主がこの人々を助けられたので」
ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のためにユダヤ人キリスト者たちは各地に離散していきました。その中で、アンティオキアでの様子が記されています。当初、ユダヤ人キリスト者たちは、同胞以外にみ言葉を語らなかったようです(19節)。ユダヤ人としか交流しないというのは偏狭な態度に思えますが、彼らの宗教的伝統からすれば当たり前のことであったのです。ところが、キプロス島やキレネから来た流れ者のキリスト者たちが、ギリシャ語を話す人々にも福音を宣べ伝えたところ、「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった」のでした。当時の共通語であるギリシャ語が用いられたことも重要なポイントですが、最も重要なことは、「主がこの人々助けられた」ことです。主の助けによって異邦人への伝道が行われた。たとえ、誰がどんなに感動的な話をしたとしても、どんなに綿密な計画によって活動がなされても、主が助け働いて下さるのでなければ、それは伝道とはなりえません。

■バルナバ(慰めの子、励ましの子)
アンティオキアで異邦人がキリスト者となったという噂は、エルサレム教会に伝わり、現地調査のためバルナバが派遣されました。バルナバは、そこで民族の壁を越えて働く神の恵みの御業を確かめて喜び、そして皆に対し「固い決意をもって主から離れることのないように」(23節)と励ましたのでした。更に、バルナバは、あのサウロを探しにタルソスに赴き、彼をアンティオキアに連れてきました。「あなたはもはや隠れている時ではない、共に主の器として用いられようではないか!」そんな強い願いがあったのではないでしょうか。そして、二人は丸一年間、アンティオキアに留まって伝道しました。
人種も背景も異なる人々が、アンティオキアで、キリストにあって一つとなり、困難な状況の中で力強く群れを形成していきました。この理由を地理的、社会的、心理的、いろんな側面で分析することもできるでしょうが、使徒言行録はただバルナバが人々に対して「固い決心をもって主から離れることがないように」と励ましたことを記します。このことは教会形成にとって決して小さくない事だと思います。きっと、それ以降もキリスト者たちは「主から離れないように」と互いに励ましあい続け、そして、その励ましあう姿こそが、周囲の人々からあの一派は「キリスト者(クリスチャン)」と呼ばれる所以ともなったのではないでしょうか。
「固い決心をもって主から離れることがないように」。それは私たちに置き換えて言うならば、どんな時にも、礼拝に留まる、教会に留まるということであるでしょう。それは、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。わたしにつながっていなければ、あなたがたは何もできないからである」と呼びかける主がおられるからです。

■「主から離れることのないように」
バルナバは、アンティオキア教会の状況をよく分かっていたはずです。迫害の危機と隣り合わせなのです。バルナバ自身は、親しかったであろうステファノを失う経験もし、直後の12章には、使徒ヤコブの殺害とペトロの投獄が報じられています。そんな嵐の中に教会は誕生したのです。あるいはまた内的試練もあります。洗礼を受けキリスト者となって最初の内は、喜びや平安で一杯かもしれません。しかし、しばらくすると神について、自分自身について、世界について、愛について、赦しについて、平和について、死について、様々な問いが生まれてきます。自分の思い描く信仰生活とかけ離れたような現実に苦しむことも起こり得る。そういう試練が外からも内からも訪れることをバルナバは分かっているから、「主から離れないでいなさい」と励ますのです。
福音書の中に、嵐吹きガリラヤ湖上で弟子たちが慌てふためく一方、主イエスが舟の中で眠っておられたという話があります(マルコ4:35、マタイ8:23)。同じく、主イエス・キリストという命の平安が告げられる教会は、いつも闇と嵐の中にあります。わたしたち一人ひとりにも主から引き離そうとする様々な力が働いてきます。自己保身、利己的な思いへと絡めとろうとします。かつて12人の弟子たちも主から離れてしまったのです。そのような揺れ動く舟にあって、「恐れるな、わたしだ」と呼びかける主に留まらずして、私たちは進みゆくことはできないのです。
主イエスの命に結ばれ、主にあって生き、主にあって召される、すべてにおいて主イエスが我が命の主として、その完全な愛をもって捉えて下さっている、この恵みあればこそのわたしであるということを忘れて、主につながっておられなければ、それは自由に生きているように見えて、実はどこまでも的外れで、根無し草のような、「結局、長い暇つぶしのような人生だった」と空しく言うことになりかねません。主こそが固い決心をもって私から離れずに、今まさにこの私を愛し、今まさに私を支え用いようとして働いておられる、その御業の中で生かされる一人ひとりでありたいと思います。

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