札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■神が自分たちと共にいて行われたこと
パウロの拠点シリア州アンティオキアに、ある人々がやってきて、割礼の必要性を訴えました。神の民の証しである割礼を絶対的に重んじていたユダヤ人にとっては、異邦人がいくらイエス・キリストを信じたからといって、割礼なしで救われるということは到底理解も受容もできなかったのです。その不満がついに噴出したのです。彼らとパウロ及びバルナバとの間に激しい意見衝突が起こりました。この問題を先延ばしすればするほど、ユダヤ人中心のエルサレム教会と異邦人中心のアンティオキア教会の溝は深まり、最後は決裂してしまう。パウロとバルナバは、この問題について協議するため、エルサレムに上京しました。
パウロは、これまで神が自分たちと共にいて行われたことについて、ことごとく報告しました(4節)。注目すべきは、「自分たちがどういうことをしたか」の活動報告ではなく、「神が自分たちと共にいて行われたこと」という視点で語ったということです。このことは重要です。宣教の業において、主語は人間ではなく、常に神です。これを人間の業に貶めてしまってはなりません。神の大きく広く豊かな働きを、単なる人間の企て、人間の努力ということに矮小化してしまったら、見るべきものが見えず、いずれすぐに行き詰まってしまうことでしょう。人間は、神の宣教の業のために器として用いられるのです。人間が神に「協力」するとか「助ける」のではありません。神は私たちを用い、私たちの思いを超えて働かれる。その器として、わたしたちは欠け多き自分を献げる、参与するのです。
■ただ恵みによって
ペトロが発言しています(7節以下)。ペトロ自身、カイサリアで百人隊長コルネリウスの洗礼を出来事に遭遇しました。神が、割礼のない異邦人をも分け隔てもなく受け入れられたことを目撃しました。それゆえに「私たちは主イエスの恵みによって救われると信じているが、これは彼ら異邦人にも同じことです」(11節)と言うのです。鞭打たれ、自分たち弟子にも見捨てられ、十字架で罪人として死なれ、しかし復活させられたあのイエスこそ我らを導く主であり、この方に我らの罪の赦しがある、命がある。この恵みは一方的で、何の分け隔てもなく、すべてのものを招いているのだ。それなのになぜ割礼や律法を条件として彼らに課す必要があるだろうか。そんなペトロの思いが言い表されました。
■聖書からの立証
続けて、ヤコブが発言しています。彼は、シメオン(ペトロ)の発言を、聖書から立証しようとしています。「聖書に次のように書いてあるではないか」と。これは大切なことです。単に自分たちのその時の心境、思いつきで判断するのではなくて、聖書の言葉を基とするのです。その上で、ヤコブは、神に立ち返る異邦人に律法や割礼ということを強要して悩ませてはならない、いまや割礼の有無は問題ではない、と判断しました。自分たちが何をしたかではなく、ただ神がキリストにおいて何をしてくださったか、そこが重要、その分け隔てのない恵みによって、我々は互いに赦され愛されている、この一点が土台として確かめられたということは重要な意味がありました。
■「但し書き」要りますか?
ところが、ここでヤコブは「ただ」と付け加えるのです。「ただ、偶像に供えた肉、みだらな行い、絞殺した動物の肉と血を避けるように、と手紙を書くべきです」と。これらはどれも律法の禁止規定です。割礼の有無は問題ではないと言いつつ、ただし、律法を大切にして生きているユダヤ人の手前、最低限この律法はマナーとして守るようにと要求しているのです。
こうして、なおも人間的な躊躇がそこに働くのです。「そうはいっても」と、何かしらの制約・条件を付けたがる。それでは「なんでもありになってしまうではないか」と懐疑的・否定的になるのです。あるいはユダヤ人としての特別意識・プライドがあるとも言えるでしょう。そうして、救いがすべての人になんの条件もなく開かれていることについて躊躇する。これは言い換えれば、直ちに受け入れられないほど、恵みの広さ、大きさ、深さに驚き戸惑ったとも言えるかもしれません。
教会は、私たちは、「ただ恵みによって」という言葉に、「ただし」という制約や脚色をしていないか。神がキリストにおいて示された恵み、一人ひとりへの完全な肯定と祝福を、私たちが脚色し、歪め、妨げとなっていないか。何の但し書きもない福音なのです。風のように自由に、おもいのままに吹き、人を束縛するのではなく、解放するのです。その喜びを分かち合い、その喜びを伝える教会として歩みたいと願います。
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