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1. 昨年12月に入院手術をしてその後4週間余り自宅で療養していた。その間、以前から気になっていたある美術館を訪れたいという思いがとても強く湧いてきた。その美術館は長野県信州にある。美術館の名前は「言葉が無い」と書いて「無言館」という。なぜ無言館なのか。館長(窪島誠一郎)さんによれば、「並んでいる絵が、何も語らず黙っているからで…その絵をみる私たちのほうもおしゃべりをせず黙っているからです」とのこと。しかし、並ぶ絵が無言なのはどこに美術館でも同じはず。ただし、無言館の絵は太平洋戦争で戦場に送られ命を失った戦没画学生たちの遺作なのだ。

2.エッセイスト齊藤美奈子さんがその「無言館」を訪れた。彼女は実際に絵を見た時のことを次のように書いている。「いざ絵を前にしてみると、本当にみんなが無言になった。…こんな説明がつく。『齊藤孝 大正十二年十月に静岡県賀茂郡河津町に生まれ、昭和十八年四月に東京美術学校に入学、同年十二月一日学徒出陣で出征、二十年七月フィリピン・ルソン島で二十一歳で戦死。』…そこには戦没者でも英霊でもない個人(ひとりの人間)の死が刻印されているのである。」

3. 戦没学生たちの絵の前で、しばしの無言の時を経験して斎藤さんは次のように言う。「こんな才能ある若者たちの将来を戦争は奪ったのか…と思うと、わいてくるのは悲しみではなく怒りだ…」。彼女はこの怒りの体験を書いたエッセイに「無言にさせる力」というタイトルを付けた。人間には無言になっても無言の声というものがある。その声は無言だが、無言であることで語りかける声がこもっている。同時にその無言の声を聴こうとする人にはその声は聞こえる。齊藤さんは無言の声を聴いた。戦争に学生たちを駆り立てたものへの怒りとなってその声は彼女の心に響いた。

4. マルコ福音書12章41-44節の物語は、無言の人のその言葉にならない声を聴くイエスを示す物語でもあるといえるだろう。この物語ではイエスは貧しいユダヤ人女性の行動をつぶさに追っている。女性は名前も知れず一言も言葉も発しない。しかし、イエスはその女性の振る舞いに目を凝らし、彼女の無言の声を聴きとったに違いない。それゆえに、イエスはこの女性を苦しめるものに憤りに満ちた言葉を発した。イエスの憤りはこの物語の直後に神殿の崩壊を予告する厳しい言葉で示されている(13:1-2)。

5. そもそもイエスが目の当たりにしたであろうエルサレムのヘロデ神殿の賽銭箱の有様は、古い記録から概要がほぼ分かる。その賽銭箱は、ヘロデ神殿の中の「婦人の庭」と呼ばれた区画の入り口に設置してあった。13個の角笛形の容器で、献げられた金は神殿祭儀のために使われ、一部は貧民救済にも用いられたとのこと。イエスの見た女性はその左遷箱のどれかに、彼女にとってかけがえのない蓄えを献金していた姿が想像できる。マルコの記録から、彼女が「だれ(金持ちたち)よりもたくさん入れた」(43b)「生活費を全部入れた」(44)という無言のその姿から、イエスは彼女の無言の声を受けとめたことが分かる。

6. マルコは、彼女は「だれ(金持ちたち)よりもたくさん入れた。」(43b)と記したが、イエスは彼女と金持ちの献げた具体的な金額を比べたわけではなかっただろう。そうではなく、献げものをする金持ちたちと、貧しい女性の<人間そのもの>を比べたということだ。イエスは、この対比を金持ちは「有り余るものの中から」、この女性は「乏しい中から(しかも生活費全部)」という両者の人間としての振る舞いの対比として語った。イエスが人間としての両者の姿を対比したことの意味に思いを傾ける必要がある。

7.イエスの対比した両者のあまりに異なった姿は、イエス時代の神殿の献金の実態に照らしてみると、何を意味していたのかがはっきり分かる。金持ちの大口の献金は、実態としては信仰というよりも、宗教的・社会的名誉に関わる行為だった。大口の献金は、匿名ではなく、神殿祭司立ち合いのもとで献金者の氏名を衆人の中で読み上げて奉納された。献金した金持ちは、衆人の中で名前を呼ばれて称賛されるのだから、宗教的・社会的な名誉を手にするということになった。

8. これに対して、民衆の献金はそうではなかった。貧しい女性が名前を呼ばれることなどありえない。人知れず片隅の行為として献金を行ったのだ。献金のほんの一部は貧しい者のためにも用いられたかも知れないが、ほとんどは神殿の建物の壮麗さを維持し、高級祭司階級の必要のために費やされた。そうした現実の下で、それでも、彼女の献金は、彼女自身のまっすぐな信仰の心あるいは喜捨の動機による行為だったと考えていいだろう。イエスは、名誉欲が先立つ金持ちたちの姿との対比によって、この女性の中に神へのまっすぐな信仰の心や、同じく貧しい隣人への喜捨の心による振る舞いをみた。イエスは、打算ではなくひたむきに神を信じ、愛を実行する人がそこにいることに心をとめていたのではないか。

9. しかし、それと同時にイエスは、神殿宗教が貧しい女性に強いる現実の罪深さを見過ごしてはいない。つまり、この女性のもつ神への信心を利用し、神のため、神殿のためという大義名分のもとに、小さい者から奪おうとする献金システムの残酷なからくりだ。その意味ではこの女性は紛れもなく神殿宗教による犠牲者だった。当時の神殿宗教は、貧しい民衆にとっては、いわば個人を理不尽な境遇に押しやる構造的な暴力でもあった。この構造的な暴力はイエス自身を十字架刑の犠牲者として死に追いやった力でもあった。神殿宗教の構造的な暴力はまことに侮れないものだった。

10. しかし、それにもかかわらず、さらに侮れないものがある。イエスが見たものだ。まっすぐな信仰に頼む人の真実な姿がそれだ。この無言の女性の姿は、一方に宗教の名による暴力の闇を、もう一方に一人の人間のつつましく生きようとする真実の輝きを、同時に照らしだしているのだといえるだろう。イエスの眼差しはそれらをいずれも見逃すことなく、その現実の中で先ずこの女性に注がれていた。イエスの時代、壮麗な神殿を優先し、無言の民衆を大切にすることを忘れた神殿宗教、そこにはびこる構造的暴力の下に、なおひたむきに信仰を生きた女性がいた。その存在に注がれたイエスの眼差しは、時を隔てても私たちの時代の光でもあると思う。そしてまた今日の教会の私たちのまなざしを自覚し直すために、大切な戒めでもある。私たちは信仰が献げものによって証されることを認めるが、同時にそれは信仰の名によって過剰な重荷を人々に要求して苦しみを強いるものではあってはならない。教会がだれと共に歩むための器なのか、だれを思いやるのか、だれとともに分かち合うのか、私たちの細やかな愛と勇気ある連帯にあらためて深い自覚が求められる。

11. 私たちのこの時代にも無言の声に耳を傾けようとする心を失ってはならない。教会のことにせよ、社会のことにせよ、私たちは、一人の人間のかけがえない重さに目を凝らし、耳を澄ませなくてはならない。とりわけキリスト者としては、神や教会への忠実を唱って市井に生きる人々の人生を収奪の対象にしてきた某宗教集団の犯罪は他人ごとではない。コロナ状況の傷跡は思いのほか深い。人々の分断や行き詰まり、悲しみや怒りはいまだ癒されていない。私たちの目や耳に届く叫びと共に、声さえあげられない無言の声が世界には満ちている。もとより、声もあげられず、無言で苦しむ隣人を思いやり、不当な力に対して憤る心は、私たちの心に与えられているはず。一人の貧しい女性をけっして見逃さなかったイエスの弟子でありたいと願うのならば、たとえ小さくとも、何某かでも、イエスに倣う者でありたい…。「無言の声が聴こえますか」という問いは、先ず私自身に向けなくてはならないと思う。たとえ小さくても僅かでもイエスに倣って、お互いが隣人の痛みに敏感になって信仰を生きていこう。イエスはその小さな私たちの同行者となり、あるべき振る舞いを示してくださる。Ω

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