札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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◆最高法院
ローマ帝国の千人隊長によって、にわかにユダヤ人の最高法院が召集され、パウロは大祭司や議員たちを前に弁明を始めました。パウロは、最高法院を公正するファリサイ派とサドカイ派の間には、「死者の復活」という信仰理解において、決して埋まらない溝があることを知っていました。ファリサイ派は死者の復活を信じており、サドカイ派は否定して対立していました。そこでパウロは機転を利かせた発言をしました。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」(6節)ここでパウロは、イエス・キリストという名こそ口にしていませんが、自分が「死者の復活という希望を持ち、これを人々に宣べ伝えていることで捕らえられ、こうして裁かれているのだ」とファリサイ派の人々を意識した陳述をしたのです。この発言によって案の定、議長は両派の論争と化し、最高法院としての機能を失いました。パウロの戦略勝ちといったところでしょう。
◆死者の復活の希望
しかし、パウロは、議場混乱の目的だけで、死者の復活の希望について発言したのでしょうか。21章13節で言っていました。「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬ事さえも覚悟している」。パウロは、たとえ命の危険に晒される状況においても、自分が信じ、望みとしているものを証しようとしてきました。その証しすべきものとは、突き詰めればやはりイエス・キリストに在る死者の復活の希望という一点なのです。
これまで牧師をしていて、「復活が分からない」「信じられない」という声をよく聴いてきました。多くの場合共通しているのは、復活を物質的な意味において分かろうとしているということでした。しかし、それでは復活というものは、いつまでも分かるはずがありません。復活が分かる、理解するとは、そういう次元では決してないからです。復活が分かるということは、とどのつまり、この私を愛し生かす神の愛は、死をもってしても決して終わることがないということ、死に支配されない愛であることが本当に分かるということです。神の愛は、人の死を前にして、「お疲れ様でした」「ありがとう」「さようなら」という別れの言葉では終わりません。その人を過去の思い出とはしません。
◆死を超えるもの
福音書は、キリストの墓が空っぽであったことを証ししています。それは、死こそが空っぽにされたということです。神はイエス・キリストの死と復活を通して、御自身の愛が死をも克服することを啓示されました。死によって空しくされる神の愛ではなく、死を空しくする神の愛です。
私たちはいつかやがて死を迎えます。日々、抗うことのできない死に裏打ちされて、死に覆われて生きている私たちです。しかし、この私をその死まるごと覆っている愛に生かされています。正直なところ、それほどの愛には相応しくないこのわたしではないでしょうか。しかし、そのような私が、十字架にかかられたキリストの死によって贖われ、生かされているのです。これこそ、私たちの生きる時また死ぬる時のただ一つの慰めです。とても喜べないような時になお喜びとしてあり、希望するすべもないような時になお希望として与えられているのです。「インマヌエル、神は我らと共に在ましたもう」。この恵みは、生きている間の束の間の、限りある慰めではありません。神の愛は、最後の最後で「ごめん、わたしの愛はもうここまでだ」と諦めたり、誤魔化してその場をやり過ごそうとするようなものではありません。「インマヌエル」、それは、わたしを完全に永遠に愛する神の決断です。それゆえに、死は一時の「眠り」なのです。
キリストの十字架の死と復活、そこに啓示された福音。それは、人間の知恵の理解では、いつまでも分からないどころか、愚かで無価値な話に過ぎないでしょう。しかし、神の愛にとらえられたものには、何よりも鮮やかで驚くべき事実、信仰のリアルです。そして、この神の愛によって生かされていることを信じるからこそ、失望せず、勇気をもって、目の前の現実を受け止め、一歩進みだしていく力が起こされるのです。涙が喜びに、失意が希望に、死が命に、ついに変えられるその日を見つめて生きるものとされるのです。
◆勇気を出しなさい
パウロの存在と信仰を巡って、エルサレムの民衆は騒ぎ、最高法院も混乱しました。人々の心が騒ぐ中、主は、兵営で夜を過ごすパウロのそばに立って言われました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」
この先行きの見えない状況においても、復活の主がパウロと共におられた、ということが物語られています。人生の恐れや困難の時も、死においてさえも、そこに復活の主がおられなかった時などひと時もないのです。「自分の務めはまだ終わっていない」、夜の闇の中で光を見つめるパウロの眼差し、それは、今日を生きる私たち自身の眼差しです。
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