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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■今しかない
「家の屋根をはがし、つり降ろしてでも、この人を、神の言葉に、イエスの福音に触れさせたい」と願い行動した4人の人々の姿が物語られます。ただ単に中風という病を癒してもらうだけならば、主イエスの話が終わってからで構わなかったでしょう。しかし、彼らは一刻を争いました。「今しかない」という思いで、イエスの前に、イエスが告げる福音(・・)の(・)前(・)につり降ろしたのです。このことは、ある意味で御言葉に対するわたしたちの姿勢を問うものでもあるでしょう。
礼拝は、造り主である神の前に、この方の言葉の前に、もう一度自分自身を位置付け、再生される時です。まずもって自分がおり、それに神様を合わせることはできません。まず造り主である神がおられ、この方に造られ生かされる私たちがいるのです。人間の言葉や思いばかりが先立って、神の言葉が後回しにされるのではおかしいのです。「初めに言があった」と聖書にあります(ヨハネ1:1)。この言葉が最初にあり、この言葉によって造られ、生かされ、導かれるわたしたちがいます。わたしたちそれぞれが置かれている現実を知り、憐れみ、深く赦し、担い導く神の言葉を抜きにして、「人はパンだけで生きることはできない」のです。

■この世の屋根をはがして
屋根に穴が開けられ、そこから病人が床ごと吊り降ろされてくるという光景を想像しながら、主イエスの洗礼の場面(マルコ1章)を思い起こします。「天が開かれ」「霊が鳩のように降って来た」というあの場面です。その時天から声が響きました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。神は、この天の祝福を世に生きるすべての人々の命に響かせるために、ナザレのイエスとして世に来られました。いわば、神様という方こそ、この世の堅い屋根をはがしてでも!という決意をもって、この世に吊り降ろされた(・・・・・・・)のです。「構わないでくれ」と関係を拒絶する悪霊を人々の内から追い出し、一人ひとりの命に祝福をもって関係していったのです。4人の男が屋根から病人をつり下ろす、その必死の働きに神ご自身のこの世への愛を見出すことができるのではないでしょうか。

■信仰共同体
主イエスは、彼らの行動に信仰を見つめられました。一人のために力を尽くし、愛を尽くし、思いを合わせて、今こそ主イエスの福音のもとへつり降ろそうとしたところに、主イエスは飾りではない本物の信仰をご覧になったのです。そして、彼らの信仰のゆえに、主イエスは中風の人に告げるのです。「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)。中風の人は、体の麻痺ゆえに自分の口でイエスへの信頼を告白することはできなかったかもしれません。しかし、この人は、この人のことを決して独りにはしない4人の人々と共に生きているのです。彼らもまた、彼の病を負い痛みを負いながら共に生きているのです。札幌北光教会では洗礼式の時、皆で共に信仰の告白として使徒信条を唱和します。それは洗礼というものが、この人だけが信じ告白するプライベートな出来事ではなく、この人と共に生きていく教会共同体としての業であるからです。

■子よ
「子よ、あなたの罪は赦される」。病気であることは神への罪の結果であると理解されていた当時にあって、主イエスは彼を罪の支配から解放します。そして、皆が聴く場で、「子よ」と告げました。それは「あなたもまた神が全身全霊の愛によって造られ生かされている大切な神の子どもである」という存在の全肯定です。それが単なるリップサービスなどではなく、真実な神の赦しであることを証しするために、主イエスは彼に告げました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。彼がたちまち起き上がり、床を担いで家に帰っていった姿は、罪に横たわっていた者が、罪の支配と束縛から放たれ、神の子としての命を喜び、生きはじめたことを強烈に人々に証しするものとなりました。そして、それはイエスが律法学者のように神の代弁者となって人を裁くのではなく、神ご自身の権威をもって罪を赦し、人を新たに神の子として起こし上げる救い主であることを証ししました。
律法学者たちは、主イエスに反感を抱きました。それゆえに主イエスはやがて十字架を背負わされることになりました。しかし実にこの十字架の出来事こそ、主イエスがわたしたちの罪という死に至る病を負い、痛みを負うて共に生き、わたしたちを神の祝福のもとへと吊り降ろして下さる出来事となったのです。

■床を担いで
「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(11節)。今朝、主イエスはわたしたちにも「わたしはあなたに言う」と、差し向かいで赦しを告げて下さいます。それはわたしたちが神に愛された者としての自分を生きていくために。わたし自身が愛する者となっていくために。主イエスは、彼に「床を担いで」帰るように命じました。「床」は、彼の病を共に負い、共に生きてくれたあの4人の人々の愛のしるしです。あるいはまた、主イエスの福音を信じて吊り下ろした彼らの信仰のしるしです。その床を担ぐということは、彼もまた、そのように隣人の病と痛みに連帯し、また主イエスの福音を信じ委ねて生きる者となっていくということであったのではないでしょうか。わたしたちもまた、今日、罪赦された者としての新たな生へ、福音を信じ、隣人を愛するいのちへと起き上がり、遣わされていくのです。

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