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■安息のない時代
律法の中心である十戒には、安息日には働いてはならないと定められていました。この世界を創造された神様が休まれた日であり、神様がこの日をご自分のものとして聖別された日だから。人は、この日を自分のために過ごしてはならず、ただ神様を礼拝することに集中したのです。ユダヤ人は、こうして自分たちが神の民であるというアイデンティティを保ち、受け継いでいったのです。ところが、時を経るにつれて、これが厳めしい原理主義に陥り、安息日は、守ることそれ自体が目的となり、これを守らない(守れない)ものは裁かれ、共同体から遠ざけられました。「安息」とは言葉だけで、息苦しいものになってしまいました。
人々は、安息日の会堂に手の不自由な人を連れて来て、主イエスに対し「安息日に病気を治すのは律法で赦されているか」と試しました。この人が人格を顧みられず、ただご自分を陥れる道具として扱われたことに対し、主イエスは「人間は、羊よりもはるかに大切なものだ」と答えられました。羊は大切な家畜・財産であり、穴に落ちた時には「安息日だから」といって助けないはずがないのです。それなのに、人々はこの手の不自由な人を、まるで家畜以下のように軽んじ、都合のいい道具として利用していたのです。この人から人間としての尊厳が、安息が奪われていることは、主にとってあるまじきことでした。

■手を伸ばしなさい
申命記5章にこう記されています。「安息日を守ってこれを聖別せよ。(中略)七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。」
安息日は、神が苦しみの中にあった民に「御手を伸ばして」救い出され、安息を与えて下さったことを心に留める日なのです。そして新たに息を吸い込み、主がそうしてくださったように、隣人へと愛をもって手を伸ばして生きていくのです。主イエスがこの時告げた「手を伸ばしなさい」とは、一体誰に向けて告げられた言葉として読むべきでしょうか。手の不自由な人とは本当は誰のことなのでしょうか。

■わたしの軛を負いなさい
直前の箇所でこう告げられています。「疲れた者、重荷を負うものは、誰でもわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう。わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28〜30)
この時代の人々が負っていた重荷とは律法のことであると解釈できるでしょう。戒律づくめの現実に束縛され、疲れていた人々、裁かれ遠ざけられ、存在を否定されていた人々がいました。この時代のわたしたちも戒律とは言わなくても、生きる上での逃れられない重荷を抱えていることでしょう。その重苦しい現実に疲れ果て、前に進めないということがあるでしょう。自分が遠ざけられ、裁かれているような、あるいは自分自身を裁いてしまうようなことがあるでしょう。
主イエスは「わたしの軛を負いなさい」と言われます。軛は重荷を運ぶための道具です。誤解してはなりませんが、主イエスは「あなたの重荷を降ろしてあげます」と言われるのではありません。人生の重荷は現実としてあるのです。しかし、この重荷は軛があることによって運び、進むことができるのです。キリストの与える軛、それこそ外すことのできない神の愛という名の軛です。
軛という横木に「十字架」を連想するのは検討外れではないでしょう。キリストの軛を負うとは、主イエスが担われた十字架の事実を身に負うことです。十字架によって主は自ら世の罪を引き受けられました。十字架上の絶望的な叫びには、この世の人々の叫びが担われていました。そうしてどこまでもこのわたしを知り、このわたしを贖い、愛してくださった事実が、わたしたちを真に生かすのです。そして、すべての人が負うている死という重荷もまた、この愛の軛があるからこそ引き受けて進むことができるのです。
「手を伸ばしなさい」と告げられ癒された人は、キリストの軛を負うて生きるものとされました。それは実にわたしたち自身のことなのかもしれません。そうして限りなく愛されたもの、赦されたものとして、この手を伸ばし、差し出しあい、共に安息を得て生きることを主はこの時代に求めておられます。

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