札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■捨身飼虎図
法隆寺所蔵の国宝「玉虫厨子」(紀元7世紀)の側面に捨身飼虎図が描かれています。「捨身飼虎」とは、仏陀の前世物語の一つです。ある王子が崖の下に餓死しそうな7匹の虎の子とその母親を見つけました。王子は虎を助けるために服を脱ぎ、崖から身を投げ出して自分の肉を食らわせた、そして王子は生まれ変わって仏陀になるという話です。宗教学者の山折哲雄さんは、この「捨身飼虎」図について一つの仮説を立てました。自分の命を投げ出して虎に食わせるという、仏教的と思えないこの話には、十字架で死んだイエスの犠牲というモチーフが、中央アジア、インドに及んで仏教の説話に何らかの影響を与えたのではないか、と。あり得ない話でもなさそうです。
■虎狼より人の口恐ろし
キリストの十字架の死を「捨身飼虎」に置き換えるとするならば、虎の親子とは人間ということになるでしょう。わたしたちは時に虎のようです。「羊質虎皮」と申します。中身は羊だけれど、外側に虎の皮をかぶる。つまり「自分は強く立派である」と虚勢を張り、つまらないことでも自分を大きく見せようとすることがあるかもしれません。「虎狼よりも人の口恐ろし」とも申します。人は時に、虎以上に恐ろしく相手に致命傷を負わせるような言葉の牙を剥きます。神に賛美を捧げたかと思えば、その同じ舌で人を呪う言葉が出てくる(ヤコブの手紙3章)。実に人間こそ、飢えた虎のようではないでしょうか。そして、そこにキリストが身を投じて、ご自身を喰わせるのです。
しかし「捨身飼虎」と十字架の死には、一つ大きな違いがあります。それは「罪」の問題です。捨身飼虎においては、虎の「罪」は何ら問題ではなく、いわば一方的は慈悲です。しかし、キリストの十字架の犠牲、あるいは神がその独り子を世に与えられた降誕の出来事は、世の「罪」の現実が見つめられています。その罪とは、人が神を捨て、自らが人であることの本分・本来性をも捨ててしまっている現実です。
■第2のアダムとしてのキリスト
「一人の人によって罪が世に入った」(12節)、「一人の不従順によって多くの人が罪びととされた」(19節)。これは「わたし自身は何も悪くないのに、アダムのせいで自分まで罪人にされてしまった」という話ではありません。アダムの物語には人間の普遍的な本質が語られていると理解すべきです。神の命令に背いて善悪の知識の木の実を食べたアダムの罪、そこにすべての人の罪の現実が象徴されています。すなわち、「神のように善悪の知識を持つ」という罪です。自分が人間としての本分・本来性を忘れ、神に成りあがり、自己中心的に善悪を決めつけてしまう「エゴイズムの実」を、皆がある意味で食べてしまったのです。
「一人の不従順によって多くの人が罪びととなった」と言われる時、それは「このわたしの不従順(自己中心性)が、別の誰かを不従順(自己中心性)へと誘い込んでしまうのだ」という理解もできるでしょう。その連鎖によって、もはや世は飢えた虎のように他者を食い物にし、虎以上に恐ろしい獣と化してしまっているのではないでしょうか。その不従順の連鎖の中に、キリストは「一人の人」としてご自身を置き、十字架の死をもって罪の世の贖いとなられたのです。パウロは、一人の不従順によってすべての人に死が入り込んできたのならば、一人のキリストの従順によってすべての人に命がもたらされたのだ、と語ります。キリストお一人の十字架の死によって、神は世に対する完全な赦し・和解を打ち立てられたのだというのです。
■なおも罪深く、なおも赦されて
キリストが十字架で死なれたからといって、わたしたち罪の実態がきれいさっぱり無くなったわけではないでしょう。依然として深刻な罪をわたしたちは抱えています。しかし、まさにそのわたしを神はキリストのゆえに赦す、愛す、生かすと決断されたのです。その決断は覆りません。この神の決断の中に新たに生きるを得させていただいたものとして、わたしたちには神に応えて生きる道が与えられているのです。
神は私たちの罪を「見て見ぬふりをされた」のではありません。この私の現実を深く見つめ、しかし見放さず、わたしたちが本当に神の子としての命を生きるものとなるために、徹底して関わり続けようと決意されたのです。「わたしはあなたと共にいる」と。それがあの降誕の出来事であり、十字架と復活の出来事です。この恵みは、わたしたちにとって、ただ一時的に飢えを凌ぐことができるといったものではなく、とこしえの契り、約束なのです。
主の年2022年が始まりました。これは神が造り、神がそのみ言葉によって、この世を捨て置かれずに共に生き、導いて下さる年であるがゆえに「主の年」です。古い年が過ぎ去ったのと共に、わたしたちも古い自分を脱ぎ捨てて、み言葉によって新たに生きていく時です。虎のように飢え、力を振り回す社会、虚飾に満ちたこの社会、この闇の中にその身を与え、その闇の中で真実な光として輝き、共に生きられるキリストあって、赦された罪人として、愛された神の子としての生き方を選び取っていきましょう。
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