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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■見えているようで見えていない
主イエスが盲人を村から連れ出し、一対一の状況で癒したという本来目撃者不在のはずの物語。「盲人とは誰なのか」を問うことがポイントです。マルコ福音書は、「これはあなた自身の物語なのだ」と読み手である私たちに告げているのではないでしょうか。主イエスが、彼の目に両手を置いた時、彼は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と応えました。つまり、見えるようになったが、未だ鮮明ではないのです。「見えているようで、なお見えてない」というこの状態は、私たち自身の状態を言い表しているものととらえられます。
直前の箇所で、主イエスは弟子たちに言いました。「まだ悟らないのか」。「心が頑なになっているのか、あなたたちは見えていないのか、分かっていないのか」(8章17、18、21節)。弟子たちは、舟の中にパンが一個しかないという事に慌て、困惑していました。「たったこれだけでは何にもならない」と欠けや無力さを嘆いていました。しかし、このパンは、分かち合うことで皆が満たされたという先の豊かな奇跡を証しするパンであることを彼らは忘れていました。何よりも、この舟の中にはイエスという真の一つの命のパンがあるということを見失っていました。その命を献げるほどに、このわたしを愛し、一対一で向き合って下さっている主が共におられるということを見失って心騒いでいました。

■人のような、木のような
27節以下は、弟子のペトロが、主イエスに対して信仰を言い表す場面です。ペトロは、「あなたはメシアです」と告白しました。ところが、主イエスがご自分の口から、やがて反対者たちによって苦しめられ、排斥され、殺されるということを告げた時、ペトロは、「なんてことを言うのですか!」「あってはならないことだ!」という具合に主イエスを諫めたのでした。メシアたるイエスが自らの死を語ることなど受け入れられなかったのです。しかし、そのようなぺトロのイエスに対する強い期待・願いこそが、これから十字架の死へと進もうとする主イエスの歩みの妨げになってしまっていたのです。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」(33節)。ペトロは、見えているようで見えていませんでした。イエスが何故、苦しめられ、排斥され、殺されるのか。イエスがメシアであるということのまことの意味について見えていませんでした。あの癒された盲人は言いました。「人が見えます。木のようです。でも歩いているのが分かります」。この言葉は言い得て妙です。主イエスは、十字架という「木」を背負って歩かれました。なにゆえ主イエスは十字架を背負ってゴルゴタを登ったのか、それが分からない時、私たちもまた、ただおぼろげに「人のような、はたまた木のようなものが歩いている」としか目に映らないことでしょう。

■自分を捨て、自分の十字架を背負う
どうすればはっきりと見えるようになるのでしょうか。その鍵となるものは、34節の言葉です。「わたしの後に従いたいと者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。イエスをキリストと信じるということは、キリストに従って歩むということと一つです。そして、それは「自分を捨て、自分の十字架を背負う」という行為であります。そこにおいて、私たちはキリストをはっきりと見る、キリストをはっきりと知るのです。ペトロは、イエスによって自分の願望が実現されることを期待していたでしょう。彼は「自己実現」を求めていましたが、主イエスは、むしろ自分を捨てんと十字架に進んでおられたのです。自分を捨てる、それは神様の御心こそが実現されていくために、あなたに与えられた十字架を背負うということです。十字架の先に復活という神の御心があったように、そこに世の罪の贖いと救いの恵みが現わされたように、十字架という苦しみを負うその先に、明らかにされる神の御心があるのです。己を捧げる、己をパンとして互いに分かち合う、そこに現れるまことの豊かさがあるのです。そこでは躊躇が起こることでしょう。「たったこれだけしかない」と己の無力を嘆いたり、「こんなことあってはならない」と苦しみを拒絶し、一層自分にしがみつきたくなるでしょう。そこで主イエスは見えるようで見えなくなるのです。
主イエスは「あなた一人で十字架を背負って歩け」と言われたのでなく、「わたしに従いなさい」と言われたのです。それは「わたしが共にいてあなたを導く!」との約束です。十字架を背負う、すなわち己を献げ分かちあう、そこに始まるあなたの命があるのだと招かれるのです。
主イエスは、この盲人にもう一度、手を置かれました。本当に見るべき、知るべきものを見て、生きていくものとなるために。もう一度手を置いて「どうだ、今度ははっきり見えるようになったか」と愛を込めて呼び掛ける声が聴こえてきそうです。今日、私たちもまた、もう一度手を置かれています。「信じます」と言いながらも、信じ得ないもののために。主は何度でも・・・・主は手を置いて、「このわたしについてきなさい」と呼び掛けられます。

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