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ファリサイ派とサドカイ派が結託し、「天からのしるしをみせてほしい」と主イエスを試しました。これに対して、主イエスは次の言葉を告げてその場を立ち去られました。「よこしまで神に背いた時代のものたちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(4節)。

「神に背いた時代」、それは神に背を向けてしまっているために方向感覚を失ったさまよいの時代です。人は次々と目先のしるしを求めるのです。しるしがあることでようやく自分が自分であれると思うような。空模様が毎日変化するように、人もその価値観も次々と頼りなく変わっていく中で、人は頼りと出来るしるしを求めています。例えばそれは、人からの「評価」というしるし(証し)であったりもするでしょう。

しかし、主イエスは言われました。「ヨナのしるし」以外にしるしは与えられない。預言者ヨナは巨大な魚に丸のみにされ、三日三晩その腹の中で祈りながら過ごし、陸地に吐き出されました。ヨナは死と復活を体験したのです。主イエスはヨナの体験を、ご自身の十字架の死と復活の出来事に重ね合わせて「ヨナのしるし」と言われたのです。人々は世にあって様々なしるしを求めるけれども、十字架の死と復活これ以外のしるしはない、そういう意味であると分かります。

十字架の死と復活、これこそが天からのしるし。たとえパンと魚が有り余るほど増えたとしても、大勢の人々の病気が癒されたとしても、他のどんなに驚くべき奇跡、慰め深い奇跡があったとしても、主イエスが十字架で死んで復活されなかったのならば、それらはすべて一時の表面的な癒しにしかならないでしょう。パンを分け与え、病をいやし、そうして一人ひとりへの神の愛を示したその愛が、一時のものではなく死という絶対的な力をさえも克服する永遠の愛、完全な愛として深く根差しているということがただ十字架の死と復活を通して示されたのです。その意味で、真に拠るべき唯一のしるしは、「ヨナのしるし」以外にないのです。

一年で最初の礼拝において話したいことはこのことです。いや、毎週説教によって語られている福音とは実質的にこの「ヨナのしるし」だけです。今年もまたそれが語られ続け、聴き続けられることが大切です。

奇想天外なものをみて驚嘆することならば、誰にでも出来ます。しかし、むしろ毎日の生活、当たり前の生活、あるいはどんなに祈っても求めても労苦や迷いの多い生活の中に、独り子を与えるほどに世を愛された神の愛、死の闇を超える神の愛が生きて働いていることを信じることができる、ということこそ驚嘆すべきことなのです。いくら祈っても、いくら願っても、何一つしるしが示されないとしても、そこで忘れてはならないことは、「ヨナのしるし」なのです。主イエスの死と復活の出来事、それは天からのサインです。サインですから、それは皆に一目瞭然というものではありません。この世の賢さ、知恵、力、そうしたものを基準にしては知ることのできないサインです。むしろ、そうしたものから見れば、十字架や復活は愚かなもの、無意味なものとしか映りません。ですが、世の知恵や力が頼りとならない、そのような無力さの中におかれる時にこそ、このサインは雄弁に語ります。そこに「わたしの恵みはあなたに十分」「わたしの愛はあなたに十分」との神様の約束を見出すならば、どんなしるしにもまさる力があります。

ヨナは魚の腹の中で祈りました。「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えて下さった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聴いて下さった。救いは主にこそある」(ヨナ書2:3)。それは一度、神に背いたヨナの悔い改めの祈りであり、また心よりの主に対する信頼の祈りでした。そして、これは今日、主の愛によって丸ごと飲み込まれている、わたしたち自身の祈りです。

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