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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■キリスト以外何も知るまい
十字架のキリスト、それはこの世の知恵や力から見れば、喜ばしい福音とは最もかけ離れた姿です。神の子である方が裁かれ、十字架上で苦しんだ末に絶命したという顛末は、この世に対する神の敗北の出来事です。しかし、その無残な十字架の姿によって果たされている神の愛があるということ、ここに秘められている神の知恵・力を見よと、パウロはコリントの信徒たちの信仰の目を覚まさせようと切実です。
コリント伝道に臨んだ時、パウロには心に決めていたことがありました。「あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた。」(2節)何を語るべきか、どう行動すべきかと考える時、知らずしらずの内にこの世的な賢さが先行してしまい、キリストが置き去りにされているということが起こり得ます。しかし、パウロは、「十字架に付けられたキリストを知る」という一点に立ち返り続けました。十字架において神が何を成し遂げてくださったのか、そのことを知ること抜きには、たとえどんなに優れた言葉も業もすべて的外れになってしまうからです。

■主の御業としての会堂改修
3節でパウロはこう告白しています。「そちらに行った時、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」。パウロの伝道活動は百戦錬磨ではなく、アテネでは惨敗というものでした。次にやってきたコリントでも激しい反抗や罵りを受けたようです(使徒18章5節)。己の限界を覚え、無気力と臆病に取りつかれる経験があったのでした。しかし、自分の可能性というものが削ぎ落され、弱さと無気力さの中に立った時にこそ、十字架の主イエス、この姿の中に、すべてを担われた神の愛、憐れみ、赦しを見出し、そして再び起き上がったのでした。
「恐れるな。黙っているな。私があなたと共にいる」、衰弱するパウロを再び立ち上がらせた主の言葉は、今日も生きて告げられています。すべては主の恵み、すべては主の御業、その愛に生かされ、その赦しに自分を取り戻し、その招きに応えてわたしたちは今日こうして集められています(もし人間の知恵・力が根拠とされて教会が、信仰があるならば、それは教会ごっこ、信仰ごっこに過ぎなくなってしまいます)。神様がわたしたちを用いてその御業を広く証ししようとされている、その御業を共に見、共に驚き、共に生きていくために、会堂改修という目下の取り組みは賜物にほかならないのです。
「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(9節)。
十字架と共にこの地に打ち立てられた神の愛の決断は、人の心には思い浮かびもしない、思いがけない深遠な恵みです。その恵みをわたしのこととして思い起こすことができるならば、それを聖霊の働きというのです。わたしたちは、十字架のキリストに神の思いを知ることができるのです。パウロが「それ以外知るまい」と言うのは、これこそが道であり、真理であり、命であるからです。

■キリストの思いを抱いて生きる
「わたしは神の思い(キリストの思い)を抱いている」と言い張ってもそれが本当かどうかは分かりません。それはその人の生き方において現れてくるでしょう。神が自分のすべてをキリストにおいてささげて下さったその愛を抱いて生きているならば、その人の生活は自分をささげるという生き方として現れるはずです。教会が「キリストの体」であるということも同じじです。ここがキリストの体であり、ここにキリストの思いが生きていると信じられているならば、そこでの営みすべてが「献げる」「仕える」という方向性を持っています。礼拝も奉仕も交わりも、そして目下の会堂改修も、そこでご自分をささげられた神の思いが証しされるのです。

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