札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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シメオンとアンナは、救い主の到来を、長いこと待っていました。二人の待つというのは、自分の「願望」が中心ではなく、相手(神)を信じ、「希望」を持って待つというものでした。希望をもって待つ、聖書はこれを「待ち望む」と記しています。例え今すぐに、答えや結果が見えなくても待つことを可能にするものです。それは、「信じる」ことを土台にしているからです。
さて、本日の聖書箇所に戻りますが、主イエスがお生まれになって40日が過ぎ、ヨセフとマリアは、主イエスを抱いて、神殿へ出かけ、シメオンとアンナに出会います。
神殿の中には、たくさんの人がいたと思います。様々な清めの儀式のために、礼拝のために、様々な人たちが行き交っていた。ところが、主イエスのことをまっすぐに見つめ、抱き上げ、救い主として見分けたのは、このシメオンとアンナのたった二人だけだったのです。シメオン自身の経験や主イエスの姿が特別あったのではなく、聖霊に導かれてシメオンは救い主を知り、喜ぶ信仰が与えられました。また、シメオンは、正しい人で信仰があつい人だと記されています。またヨセフも正しい人であった、とマタイによる福音書1章19節のところで書いてある通り、マリアは主イエスを律法に従って奉献したことは、両親は律法に忠実であったことがよく分かることです。イスラエルの慰められるのを待ち望んでいたシメオンは、主イエスを通して、「神様による救い」を見たのです。それは、「万民に整えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、イスラエルの誉れ」とあるように、異邦人をも含む救いでした。これは新しい啓示ではなく、すでにイザヤ書などに預言されていたことでした。
律法に忠実であった人は、他にもいたことでしょう。当時の宗教的指導を担っていた大祭司や祭司長たち、パリサイ派の律法学者たちも、メシアが来られることを待ち望んでいました。しかし、救い主メシアを待望しているはずの人々が、主イエスに気づくことができなかったのです。シメオンと、他の人たちの違い、主イエスを救い主と見分けることができた者とできなかった者の違いは、何だったのでしょうか。皆、同じように律法を忠実に守り、預言の言葉を大事にしていたことでしょう。
先ほど、今すぐに答えや将来が見えなくても待つこと、待ち望むことを可能にするのは、「信じる」ことを土台にしているからだと申し上げました。シメオンは、正しい人であったけれども、主が遣わすメシアに必ず会えると信じて待ち望んでいた。それは、自分の力で、自分の功績で、自分の努力で信じ、待っていたのではないということです。聖霊に導かれて、信じるということさえも聖霊に導かれるままに、神の愛によって信じる者とされていたのだと思います。そこには、シメオンが全てを神に委ねていた、ということです。必ず神が良いものを私たちに与えてくださるということを希望を持って待った、待ち望んだということです。
大祭司や祭司長、律法学者たちは、律法を守るということを、「私が」律法を守っている、「私は」律法を守って救われようとしている、というやったことは自分の力であると、自分の力で救いを得ようとする人間の傲慢さがあったのではないでしょうか。自分で何とかしようという誘惑は大きいものです。私たち人間は、不完全なものであると分かっていても、自分の力に頼るということも非常に危ういものであると気づいていても、神様にすべてをゆだね、信じ切ることの難しいものです。
それはなぜか、律法を守る、自分で守るということは、目に見えるものだからです。そうすることで、他者に対する自分の位置を明確にすることができるからです。律法を守れる自分と守れない他者、救われる私と救われない異邦人、というように、人と自分を比べる中で、立ち位置をはっきりさせようとし、安心するのです。すべてを神にまかせ、信じるということも私の力ではなく、それも霊に導かれて、聖霊が働いてくださって、私たちは信じるということができるのだと思います。
2024年の歩みを振り返り、私たちはしっかりと様々なことを見ていたでしょうか。主イエスを見分けることができていたでしょうか。神の愛は何かということを知ろうとし、主イエスに倣うものとなろうとしていたでしょうか。
様々な自分の思い、自分の力を信じることで、本当に見なければならいものを見落としていたかもしれません。新しく迎える年も、聖霊に導かれ、全てを神様に委ね、自分を明け渡し、どれほど神様に愛されているかを知って、隣人に仕えていくものとされたいと思います。
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