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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■波を恐れる
コロナは、第1波、第2波…と、まさに荒れる波のように社会に迫り、教会もその波に飲み込まれてきました。まさか「礼拝堂に集まらないでください」と呼び掛けなければならない状況が来てしまうとは。感染の波は教会員の生活にも影響をもたらしました。この3年間で教会員の生活環境や健康状態に様々な変化や負担が生じました。コロナ以前の状況には引き返せない。しかし、果たして「向こう岸」にたどり着けるのか。いや、「向こう岸」は本当にあるのか…。そんな心境かもしれません。危機感は募るばかり。この危機感が、ある時から誰かへの何かへの不満に変わり、「舟」の中の人間関係が揺らぎ、教会生活という意識そのものが揺らぐということもあるでしょう。更に、このような危機に、教会財政のための献金や塔・外壁補修工事の献金を呼び掛けることは、気力が失われてしまうようなことかもしれない。躊躇します。様々な事情を、悲観的・否定的に捉えようとすればいくらでもできるような状況です。しかし、一方でこの課題を将来の人々に先送りにできるか。いや、今のわたしたちが取り組まなければならないことです。まさにここでわたしたちが、いつも神を賛美し祈ってきたというそのありようが浮彫となります。今、どんな証しを立てることができるでしょう。

■あなたはどこにいるのか(創世記3:9)
主イエスは、嵐と波とを静められました。肝心なのはそこではありませんでした。嵐と波が静まるということではない、言い換えれば、コロナという波が収まればそれで良いという話ではないのです。主イエスは、弟子たちに向かって問うのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。あえて「信仰」という単語を省くと、問題の本質が明らかになるでしょう。「あなたがたはどこにあるのか」(あなたはどこにいるのか)。信仰が問われるということそれは、あなたの存在の根拠が問われることです。主イエスは弟子たちに問いかけながら、目の前でご自身を示しておられます。
これに対する弟子たちの反応は、「恐れ」(25節)でした。先ほどまで恐れていた嵐はもう収まりましたが、今こそ彼らは本当の恐れを抱いているのです。「一体、この方はどなたなのだろう」(25節)。この時、彼らは、自分という存在の根拠を、自分の内側から外側に、目の前の主イエスに見つめ始めています。

■神の意志としての「インマヌエル」
「一体、この方はどなたなのだろう」。弟子たちは、内側に抱え込んでいた自分自身を、主イエスに明け渡していくということに躊躇しています。この後も彼らは葛藤し続けました。主イエスが捕まった時、彼らは自分とイエスとの狭間で葛藤した末、イエスを見捨てて、自分自身を選びました。結局イエスではなく、自分こそが信頼できる唯一の主であったということを露呈した。しかし、彼らは自分たちの真ん中にあって「あなたがたに平和があるように」と呼び掛ける復活の主イエスに出会わされたのでした。彼らは自分が主イエスの中にこそある!主イエスの命の中にある!という真実によって立ち上がる者とされていきました。
「あなたの信仰はどこにあるのか」「あなたはどこにいるのか」、その問いがいつも私たちについて回ります。わたしたちは、自分自身と主イエスとの間で日々葛藤を繰り返しています。一度、危機的な状況に陥れば、主を信じられず、自分しか信じられないと思い、そのくせその自分がいかに脆いか、頼りなさを嘆きます。しかし、「あなたの信仰はどこにあるのか」と問いかける方こそが、わたしたちの答え・根拠です。「インマヌエル(神は我らと共におられる)」、これは私たち人間の側の願望ではありません。神様の側の堅く揺るがぬ決意です。私たちは、いつどこにあろうと、この神の決意、愛の決断の中にあるのです。飼い葉桶の中に眠り、舟の中に眠り、墓の中に眠った主イエス。このことは、人生の寂しさ、孤独、恐れ、そこを主はご自身の場所とされたということです。わたしたちの人生のはじめ、人生の嵐、人生の終わり、そこに主は共におられる。いや、この主の中にわたしはいるのです。

■主の約束の言葉を信じて
嵐に恐怖した弟子たちの叫びは、主イエスの十字架上の叫びに通じています。「なぜわたしを見捨てられたのか」。神は、その時、イエスを十字架の苦痛から降ろしてやったのではありません。神は、せいぜい一時だけ苦痛や畏れを取り去ることができる神ではありません、死そのものを取り去ってくださった神なのです。ガリラヤ湖で、弟子たちは主の十字架と復活の出来事を体験したのです。私たちも、いま恐れや苦しみが波のように重なるこの時にこそ、十字架と復活の福音の中に、キリストの命の中に生かされている自分であることを覚えたいと思います。それゆえに、わたしたちは落胆しない(Uコリント4:16)、労苦は無駄にならない(フィリピ2:16)のです。「湖の向こう岸に渡ろう」と告げた、主の約束の言葉を生きていきましょう。

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