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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■イエスへの無理解
イエスが故郷ナザレに帰ってきた時の人々の反応です。「この人はこのような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」。ある意味、故郷ならではの反応でしょう。村は小さなコミュニティですからお互いの出自や家族構成、経済力などすべてに精通しているような間柄であったでしょう。村人にとってイエスは、「大工の息子」以外の何ものでもなかったのであり、そのイメージに囚われている彼らは、今のイエスを理解できない、イエスにおいて現わされている神の愛と恵みについて認識できないのです。
ルカ福音書2章41節以下では、母マリアと父ヨセフさえも、息子イエスのことがもはや分からなくなってしまう経験をしました。故郷や両親というそれだけイエスと近しい関係の人々だからこそ、イエスのことが理解できなかったということを福音書は物語ります。
あるいは、使徒言行録の中で、弟子ペトロが、聖霊に満たされて大胆に福音を語り出した時、人々は「あの男は無学で普通の人間ではないか」と言いました。また、伝道者パウロは、「人々からお前はついこの前までイエスを信奉している人々を迫害していたじゃないか」と、過去を取沙汰され決めつけられました。
そうした決めつけは、私たちの身の周りにも溢れているのではないでしょうか。その人の出自や、過去のことにこだわり、決めつけや疑いがいつまでもくっついてきて、そこから自由になって、今のその人をそのままに見ることができない、見ようとしない。そんな無理解、誤解や偏見が、部落差別や民族差別、性差別の根底にあるのではないでしょうか。

■ナザレに象徴される世界
イエスを理解せず、つまずいたナザレの村の人々。彼らは広くこの世全体の主イエスに対する態度を象徴していると理解することができます。ナザレの人々が、自分たちの中に固定してある「イエス」のイメージに捕らわれていたように、この世は、自分たちのイメージや期待に添わないイエスの言動につまずき、拒絶したのです。ダビデの子孫とは思えぬ貧相なイエス、罪人と食事をし、律法を破るイエス、その拒絶と憎悪の顛末が十字架でありました。神はこの世を愛し、この世に人として来られたけれども、世はその事実をイエスに見出すことはできなかった、受け入れようとしなかった。そんな世界の現実がこの箇所には象徴されているように思われます。
私たちは、イエス・キリストの降誕の出来事を見つめるこの時において、イエスのことを実は何も見ていなかった、見ようとしなかった、そして罪人として十字架につけていったこの世の暗く覆われた盲目という罪の現実を見つめなければなりません。そして、実にイエスの十字架の死という事実によって、この罪ある世界が担われ支えられている、その無理解さ、頑なさにも関わらず、愛され赦されている事実も見いだされるのです。一年の初めであるアドヴェントは、そのことを見つめる悔い改めの時であり、目覚めの時です。

■主を待ち望む備え
主イエスは言われました。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」。それは「故郷や家族というものは往々にしてそういうものなのだ」という諦めの気持ちではなく、むしろ、「その身近なあなたたちにこそ受け入れて欲しかった」という願いであったのではないでしょうか。そして、その願いは拒絶されて潰えたのではなく、今日のわたしたち一人ひとりに求められていることなのではないでしょうか。わたしたちは、「主を待ち望む」アドヴェントの時を過ごしています。主の再臨、到来を目を覚まして待つ時です。主イエスは、「こんな世界、来なければよかった、もう二度とごめんだ」と言われたのではありません。「再び来る」と言われたのです。そして、それは思いがけない時に来るというのです。終わりの時は、遠い未来のことのようでありながら、今日ここに始まっているのだということを先々週からお話してきました。「いと小さきものの一人にしたことは、わたしにしたことである」、この言葉に主を待ち望むキリスト者としての姿勢がそのまま教えられています。主に出会い、主を受け入れるその備えはできているでしょうか。かつて主イエスを十字架にかけ、この世から追い出したのと同じ轍をわたしたちは踏むのでしょうか。「主よ、来て下さい(マラナ・タ)と祈りあるいは歌ったなら、日々接する隣人、幼子に主の到来を見つめていきたい。主は共におられる(インマヌエル)という信仰は、「主は今日この隣人においてわたしを訪れておられる」というアドヴェントの信仰と一つなのです。

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